依上城 (よりがみじょう) (塙館)
最寄地 茨城県久慈郡大子町塙570 2016.3.5
依上城 (よりがみじょう) (塙館)
最寄地 茨城県久慈郡大子町塙570 2016.3.5
登城ルート
3郭入口
3郭
腰郭・主郭切岸
主郭・社
2郭
依上城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高20m】
【感想】 押川北の標高172m比高約20mの丘陵に築かれており、3つの主要郭から構成されている。竹林や杉林となり最高所の主郭には社が祀られ、南の押川に沿った田園風景が望める。
【案内】 大子市街より西に約3km行った国道461号線より右折、北に約130m、右折した表記番地横に入口がある[マップコード222 712 613*83]。駐車スペースは少ない。
入口の南に方形の3郭(地図)があり、土塁跡が見られる。その南の竹林を分け入り、登ってゆくと、約40m四方の主郭があり、中央に社が祀られている。
北側は一段低い腰郭の傾斜地となり、南側は急崖となっている。
東に一段下がって杉竹林の中に2郭がある。下って北を目指すと、もう一つの入口に出る(地図)。こちらには駐車スペースがある。
【歴史】 『新編常陸国誌』には、依上氏について「依上保ヨリ起ル、北酒出義資ノ二子顕義、弥次郎卜称ス、三子アリ、義教、義泰、義実ト日フ、義教播磨守、子アリ、義長ト日フ、式部亟和泉守、白河郡依上保ヲ食ム、因テ氏トス、足利尊氏ニ仕フ、子無シ、山入与義三子宗義ヲ嗣トス、三郎和泉守ト称ス、上杉禅秀ニ党スルヲ以テ亡ブ」とあり、義長、宗義の時代に依上保を所領としたことが記されてる。以上『大子町ホームページ>文化遺産を調べる』より。
築城時期は不詳だが室町時代といわれ、常陸守護・佐竹氏の庶流の北酒出氏の分家であった依上氏の当主・依上顕義が築城したとされる。別名を塙館ともいう。
代々、依上氏の居城であったが、依上義長に実子がなかったため、佐竹氏の庶流・山入氏より養子が入り、依上宗義が城主となった。
以降、山入氏の実質的な一族として佐竹氏の家督相続において山入氏が本宗家である佐竹氏に背くと依上氏も山入氏方として行動した。
殊に山入氏とその一族である依上氏は室町幕府における関東の統治代行者である鎌倉公方ではなく、足利将軍家を直接の主君とする京都扶持衆となっており、鎌倉公方と公方に忠節を尽くす守護佐竹氏とは緊張関係を保つようになっていた。
その後、応永二十三年(1416年)犬懸上杉家の当主で前関東管領・上杉禅秀が足利満隆を奉じて、鎌倉公方・足利持氏に謀叛した上杉禅秀の乱がおきた。
依上氏は禅秀方に与したことで、依上宗義の一族は鎌倉公方の追討を受けることとなり、公方から派遣された里見家基の攻撃を受け落城した。その後、廃城となった。以上『ウィキぺディア』依上城より。