江戸城 (えどじょう) (皇居) (国の特別史跡・日本100名城21)
所在地 東京都千代田区北の丸公園3−2 2013.9.29
江戸城 (えどじょう) (皇居) (国の特別史跡・日本100名城21)
所在地 東京都千代田区北の丸公園3−2 2013.9.29
北桔梗門
高石垣・平川堀
天守台
富士見櫓
大手門
巽櫓
二重橋・伏見櫓
桜田門
江戸城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 「国立公文書館」(表記番地)西の「北の丸公園」駐車場(地図)より歩道橋を渡り、平川堀や石垣を見ながら、警備員のいる北桔梗門より入る。
天守台周辺では、中国語、英語等の外国人が、大勢観光に訪れている。本丸の土塁に沿って行き、松の廊下跡、蔵、富士見櫓、百人番所、同心番所を見て、大手石垣虎口を抜け、大手門より出る。超高層ビル群を望みながら、皇居前広場を通って、内堀、巽櫓を見る。桔梗門、坂下門、皇居正門、二重橋、伏見櫓、桜田門を内堀沿って見る。いずれも美観は素晴らしい。
せっかく来たので、三階に復元された直後の、東京駅に脚を延ばす。風格あり素晴らしい。帰りは和田倉門跡および和田倉噴水公園を経て大手門より再度入り北桔梗門から出た。現在西丸・吹上の地域は皇居となっている。
昭和三十五年(1960年)5月20日、国の史跡に指定され、昭和三十八年(1963年)5月30日、国の特別史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(21番)に選定された。
【歴史】 平安時代末期に武蔵国の名族・秩父氏の当主である秩父重綱の四男江戸重継は江戸の地に根拠地を置いた。江戸氏の居館は、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる。
十五世紀の関東争乱で江戸氏が没落した後、長禄元年(1457年)扇谷上杉持朝の家臣・太田道灌により築城された。
道灌が上杉定正に殺害された後、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで大永四年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入った。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城し、秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府から転居した権大納言の徳川家康が、同年八月一日(1590年八月三十日)に公式に入城し、居城とした。このため旧暦の八月一日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。徳川家は開幕までにそれまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築した。
慶長八年(1603年)家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手した。慶長十一年(1606年)諸大名から石材を運送させ、石垣、堀など増築した。
寛永十四年(1637年)には天守台・御殿を修築し、翌年には五重天守が完成した。四代将軍家綱の時、明暦三年(1657年)一月十八日に起きた明暦の大火により天守閣は消失し、以後再建されなかった。
徳川将軍家代々の居城であった。初代家康(慶長八年(1603年)~)、二代秀忠(慶長十年(1605年)~)、三代家光(元和九年(1623年)~)、四代家綱(慶安四年(1651年)~)、五代綱吉(延宝八年(1680年)~)、六代家宣(宝永四年(1709年)~)、七代家継(正徳三年(1713年)~)、八代吉宗(享保元年(1716年)~)、九代家重(延享二年(1745年)~)、十代家治(宝暦十年(1761年)~)、十一代家斉(天明七年(1787年)~)、十二代家慶(天保八年(1837年)~)、十三代家定(嘉永六年(1853年)~)、十四代家茂(安政五年(1858年)~)、十五代慶喜(慶応三年(1867年)~四年)と続き明治維新を迎えた。
慶応四年(1868年)四月四日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、十月十三日に東京城(とうけいじょう)に改名された。翌年 東京遷都で皇城と称される。
明治六年(1873年) 皇居として使用していた西ノ丸御殿が焼失した。明治二十一年(1888年)明治宮殿の完成によって宮城と称される。
大正十二年(1923年)九月一日関東大震災で残っていた建造物は大きな被害を受け、和田倉門(櫓門)は復旧されなかった。他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修された。昭和二十年(1945年) 空襲で大手門が焼失した。昭和二十三年(1948年)皇居と改称された。