高清水城 (たかしみずじょう) (高清水要害)
所在地 宮城県栗原市高清水東館35 2016.6.4
高清水城 (たかしみずじょう) (高清水要害)
所在地 宮城県栗原市高清水東館35 2016.6.4
正門横土塁・説明板
城跡碑
土塁・石碑
外濠公園
高清水城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 「栗原市立高清水中学校」(表記番地)敷地となっている。西側の正門横に土塁が残り、説明板、「高清水城跡」の石碑が建てられている[マップコード141 557 244*27]。
正門前の道を北に行くと「お濠遺跡」があり、土塁が残っている。その北の濠跡は外濠公園として市民の憩いの場となっている。
【歴史】 高清水城は戦国大名・大崎氏の一族である高泉直堅が天文年間(1532~55年)に築いた。
豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏が改易されると、木村吉清が新領主となった。
伊達政宗の煽動により葛西大崎一揆が発生すると、高清水城は一揆勢に攻略されたが、秀吉より一揆鎮圧を命じられた政宗によって奪還された。
一揆鎮圧後、政宗が転封されて岩出山城に移ると、高清水城も伊達氏の所領となり、慶長九年(1604年)十月、涌谷城主・亘理重宗に隠居領として与えられた。
慶長十一年(1606年)、政宗の庶子・宗根(むねもと)に重宗の末娘を嫁がせて婿養子とし、隠居領と併せて亘理氏の名跡を継がせることになった(高清水亘理家。のちに佐沼亘理家)。
宝暦七年(1757年)に第5代・亘理倫篤が佐沼城に移されると、高清水城には石母田興頼が宮崎城から入り、石母田氏の居城として幕末に至った。江戸時代中期に要害になった(伊達21要害の一つ)。