波多野城 (はだのじょう)
最寄地 神奈川県秦野市寺山512 2017.10.8
波多野城 (はだのじょう)
最寄地 神奈川県秦野市寺山512 2017.10.8
城跡・東側の谷
案内標識・階段
城趾碑と説明板
主郭
北側空堀
源実朝公首塚
波多野城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 秦野市寺山の東側を深い谷、西側を金目川に挟まれた南北に細長い舌状台地にあり、畑となっている。
北側に竹林となった空堀があり、南側の小高くなった所に「波多野城趾」の石碑と説明板が建てられている。
平安時代末期から鎌倉時代初期の古い城で、遺構はほとんど見られない。
【案内】 県道70号線「東小学校前」交差点のすぐ西を右折して行った、「秦野市立東小学校」の西側道路に標識があり、1台の駐車スペースがある[マップコード57 838 011*06]。谷の通路を西に行くと、波多野城址がある。
西方約700mの「田原ふるさと公園」には、建保七年(1219年)正月二十七日、鎌倉幕府2代将軍頼家の子・公暁に討たれた3代将軍源実朝公首塚がある(地図)。
【歴史】 『新編相模国風土記稿』によると、平安時代から鎌倉時代に寺山村を拠点とした波多野氏の居城であったと云われる。
波多野氏は藤原秀郷の子孫で佐伯経範といい母方の姓を称し、源氏の家臣であった。
平安時代末、経範は安倍氏の乱(前九年の役(1051~62年)・後三年の役(1083~87年))において源頼義、義家父子に従い、黄海(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)の戦いで討死した。
経範の子孫義通は保元(1156年)・平治(1160年)の両乱で源頼朝に従い活躍した。
治承四年(1180年)源頼朝が挙兵した際、波多野義常は参戦を拒み、松田の館で自害した。その後、叔父の義景が継ぎ、更に建保元年(1213年)和田義盛の乱で義景の子・盛通が和田方に付き滅ぶと、義常の弟・忠綱にその実権が移った。
『吾妻鏡』によると、「波多野本庄北方」は義通の父遠義から保延三年(1137年)正月に義通へ、そして嘉応元年(1169年)六月義景に伝えられたという。
「波多野本庄北方」の正確な位置と範囲は不明だが、寺山に伝わる波多野城址は、この波多野義景等の居館跡と考えられる。
忠綱は、将軍源実朝の菩提を弔うため、金剛寺(秦野市東田原1116)を創建している。