烏山城 (からすやまじょう) (臥牛城)
最寄地 栃木県那須烏山市中央3丁目9−8 2014.4.10
烏山城 (からすやまじょう) (臥牛城)
最寄地 栃木県那須烏山市中央3丁目9−8 2014.4.10
登城ルート(緑線は車道)
空堀・車橋跡
正門跡・石垣
本丸跡・奥に古本丸堀切
古本丸堀切
古本丸跡・土塁
堀切・中城
移築神長門
烏山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高110m】
【案内・感想】 「県立烏山高等学校」(表記番地)の南の県道10号線に面し城跡案内看板があり、そこより西に行くと三の丸跡の寿亀山神社に至る。
三の丸跡には城主「大久保常春公顕彰碑」や川口松太郎の句碑「梅雨くらく蛇姫様の来る夜かな」が建てられている。
鳥居の前を西に回り込み車の行き止まりから登り口がある[マップコード222 273 043*76](地図)。
県立自然公園の比高110mの山頂を目指す。200mほど登ると、太鼓丸の下になり、さらに100mほど行くと「車橋趾」の表示のある空堀がある。
さらに100m行くと正門跡で石垣が残り土塁に囲まれた本丸跡(那須家時代は二の丸)がある。空堀で隔てて北に古本丸跡(那須家時代は本丸)があり、空堀、「中城」、「北城」と配置されている。
本丸の西に空堀で隔てて「若狭曲輪」「西城」があり、中城の西に「大野曲輪」がある。正門跡の南に「常盤曲輪」(江戸時代の二の丸)がある。古本丸の東に「侍屋敷」「桜門礎石」「塩倉跡」などがある。広さ88ha土塁や空堀がよく保存され、石垣も一部残っている。
また、国道294号線に面した民家(那須烏山市野上721)に、搦手門である神長門が移築され現存している(地図) 。
【歴史】 応永二十五年(1418年)、下那須家初代那須資重(すけしげ:沢村五郎資重)によって築かれた。永正十一年(1514年)の上那須家を滅ぼした那須資房が、那須氏を統一した。以後、那須氏の居城として使われた。
戦国時代には、佐竹氏により度々攻撃対象とされ、永禄六年(1563年)の大海の戦い、永禄九年(1566年)の治部内山の戦い、永禄十年(1567年)の大崖山の戦い、霧ヶ沢の戦いなど、何度か城下まで攻め込まれているがいずれも退けた。
天正十八年(1590年)那須資晴の時、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため改易され、織田信長の次男・織田信雄が入城し、2ヶ月間、城主を務めた。
江戸時代には、烏山藩の政庁となり短期間に城主が交代した。成田氏・松下氏と続き堀氏の城主堀親昌が万治二年(1659年)麓に三の丸居館を築いた。
その後板倉氏を経て、天和元年(1681年)、那須資祇(すけみつ)が2万石で旧領に復帰するが、貞享四年(1687年)、子の那須資徳の時、改易された。
以後、永井氏・稲垣氏を挟み、享保十年(1725年)、大久保常春の入封後は、大久保氏が城主を務め、明治二年(1869年)、版籍奉還と共に廃城となった。
明治五年(1872年)には、積雪によって三ノ丸御殿が倒壊、明治六年(1873年)には、失火によって、古本丸、二ノ丸、中城、北城の建物を焼失した。