深大寺城 (じんだいじじょう) (国の史跡)
最寄地 東京都調布市深大寺元町2丁目37−4 2013.10.30
深大寺城 (じんだいじじょう) (国の史跡)
最寄地 東京都調布市深大寺元町2丁目37−4 2013.10.30
二の郭・土塁
二の郭・空堀・主郭(右側)
一の郭・城跡碑・土塁
一の郭・土塁
深大寺城 一の郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 都道121号線「深大寺小前」交差点より西に100mほど行くと、表記番地横の「水生植物園」入口がある。駐車場は少なく、蕎麦店の有料駐車場を利用させてもらった。
「水生植物園」への道をすぐ西へ折れると広大な二の郭があり、南に空堀と土塁に囲われた一の郭跡がある。保存状態は良好である。
平成十九年(2007年)7月26日、国の史跡に指定された。
【歴史】 築城者は不明だが、十五世紀には「ふるき郭」が築かれていたという。 十六世紀に入って北条氏は相模に進出し、扇谷上杉氏は南武蔵の防衛ラインとして「ふるき郭」を活用している。
大永四年(1524年)一月、江戸城を北条氏綱に攻略された扇谷上杉朝興は、巻き返しを図るため、居城の河越城(川越城)から頻繁に南武蔵に出撃している。
享禄三年(1530年)六月、朝興は深大寺城に、北条氏康は多摩川対岸の小沢城に陣を敷き、小沢原で合戦になった。この深大寺城は「ふるき郭」と思われる。
扇谷上杉方としては、北条勢を多摩川で食い止め、かつ江戸城奪還を図るため、天文六年(1537年)四月、十三歳で父・朝興の跡を継いだ上杉朝定は難波田弾正広宗に命じて深大寺城を増築した。
しかし、同年七月、氏綱は深大寺城を迂回して河越城を直接攻め、朝定が松山城に敗走した為、深大寺城の軍事的価値が失われた。
その後、この地が北条氏の支配となったが、深大寺城の記録が見当たらないので、廃城になったと思われる。扇谷上杉勢を北に追いやった北条方にとって、多摩川左岸の深大寺城は小田原城の防衛には不要になったと思われる。