榎本城 (えのもとじょう)
最寄地 栃木県栃木市大平町真弓1225 2014.4.11 2015.1.7 2017.4.26
榎本城 (えのもとじょう)
最寄地 栃木県栃木市大平町真弓1225 2014.4.11 2015.1.7 2017.4.26
登城ルート(緑線は車道)
城跡碑・説明板
説明板
堀・土塁
堀・土塁
土塁・天満宮
南側空堀
本多忠純の墓
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 真弓南部公民館(栃木市大平町真弓1225)の南140mより西に145m行った南に土塁と堀があり「榎本城跡」の石碑、説明板が建てられている[マップコード64 567 856*61](地図)。
民家北の土塁上には天満宮など三社が祀られている。西150mには永野川が流れている。堀は部分的に埋められているが、南170m付近まで延びている(地図)。
南西約600mにある大中寺(大平町榎本880)本堂西に、宇都宮城主・本多上野介正純の実弟であり、榎本城2万8千石の本多大隅守忠純の宝篋印塔の墓がある。
【歴史】 天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の折、榎本城主の近藤実方は北条氏照の命で八王子城を守っていたが討死した。榎本城は、城主が留守の間に結城晴朝に攻められ落城し、以降結城氏の管理下となった。
江戸幕府成立後の慶長十年(1605年)本多忠純が1万石で榎本城に入り榎本藩が成立した。
元和元年(1615年)大阪夏の陣には敵の首級217を挙げるという功を立て、加増され2万8千石の大名となった。た。
元和八年(1622年)八月の宇都宮釣り天井事件に連座し、寛永八年(1631年)十二月十三日江戸出向の途中、利根川中田の渡しを出た船中において家臣かせとの大助に刺殺された。忠純の葬儀は榎本大中寺において挙行された。
本多忠純の死去後、藩主は本多政遂(まさもろ)が寛永九年(1632年)八月二十六日に家督を継ぎ、寛永十二年(1635年)に叙任し、寛永十五年(1638)七月二十九日に死去した。享年26歳。
家督は長男の本多犬千代が継いだが、犬千代は寛永十七年(1640年)五月十三日に五歳で死去し、榎本藩は無嗣断絶により改易となり、榎本城も廃城となった。