手子丸城 (てこまるじょう) (大戸城)
最寄地 群馬県吾妻郡東吾妻町大戸659−1 2019.2.3
手子丸城 (てこまるじょう) (大戸城)
最寄地 群馬県吾妻郡東吾妻町大戸659−1 2019.2.3
登城ルート(緑線は車道)
林道入口
登り口・橋(右へ)
北尾根2番目の堀切
2郭
3郭最初の郭
3郭東の2重堀切
主郭手前の堀切
主郭下段・主郭切岸
主郭
手子丸城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高130m】
【感想】 東吾妻町大戸の標高649mの山頂に主郭があり、東へ伸びる尾根上に多数の郭が配置されている。堀切も10ヶ所程見られ大規模な城構えとなっている。
【案内】 県道58号線の表記番地向かいに「鳩ノ湯温泉10㎞」の看板がある[マップコード295 379 249*28]。
そこから続く林道を約300m行くと2股になり、そこに駐車できる[マップコード295 349 854*08](地図)。
沢に架かる2本の板橋を渡った所から登り、頂部の鉄塔標識から左に入ると、1本道が続いている。
左に鉄塔が見える先から堀道となり、3条の堀切が等間隔に残っている。主郭の山頂の左側を登ってゆくと、主郭東尾根の堀切に着く。
アップダウンしながら東へ行くと、鉄塔があり、その先に2郭がある。2郭は横堀がありその北に広い腰郭がある。
更に東へ行くと、堀切・土橋があり、その先に3つのピークのある3郭があり、東端の尾根に2重堀切がよく残っている。
戻って主郭の尾根を登ると、広い腰郭があり、頂上に主郭がある。
【歴史】 鎌倉時代この地に移住した滋野氏の一族浦野氏が、永正年間(1504~21年)大戸地域の支配の為、築いたと云われる。浦野氏は後に大戸氏を称した。
浦野重成(大戸中務少輔)は上杉氏の靡下にあった岩櫃城主・斉藤憲広に従っていた。
永禄四年(1561年)、武田氏の圧力に屈し武田信玄に従うようになった。永禄六年(1563年)、岩櫃城主・斉藤憲弘は手子丸城を攻めたが、武田勢の援軍を受けた浦野氏は、逆に斉藤氏を撃退した。
さらに翌七年、武田軍の上州侵攻が本格化し、岩櫃城は落城した。その後、浦野氏は、武田氏に従って箕輪城を攻め、石倉城の城代に任ぜられた。
天正七年(1579年)、重成は死去し重次が手子丸城主を継いだ。
天正十年(1582年)三月、武田氏が滅亡すると、上州は北条氏と上杉氏の取り合いの地になった。織田方の滝川一益を破って南方から攻め寄せてきた北条勢は、手子丸城を攻めた。手子丸城は落城、浦野兄弟は討死したという。