長谷堂城 (はせどうじょう) (亀ヶ城)
所在地 山形県山形市長谷堂3492−4 2013.11.7
長谷堂城 (はせどうじょう) (亀ヶ城)
所在地 山形県山形市長谷堂3492−4 2013.11.7
堀
北側帯曲輪
主郭北・帯曲輪
主郭・城跡碑
主郭・四阿
南側曲輪
長谷堂城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【案内・感想】 八幡神社(表記番地)の参道から登る 。その東に「長谷堂城跡公園」駐車場が用意され、堀が一部復元され、説明板が建てられている[マップコード273 468 462*88](地図)。
途中、土塁、帯曲輪等を見ながら、紅葉の道を登る。比高70mの独立峰の頂上に堀切のある主郭がある。桝形虎口・土塁が残り「長谷堂城址」の石碑、四阿が建てられている。主郭の南斜面に段状になった帯郭が多数残っている。山形市街の眺望は素晴らしい。
慶長五年に起きた直江兼続と最上義光の合戦の城として有名である。最上氏山形城の重要な支城だった。
【歴史】 永正十一年(1514年)長井氏を亡ぼした伊達稙宗(たねむね)は長谷堂城を落し、最上氏は不利な条件で和議を結んだ。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いと同時期に発生、上杉氏は置賜(おきたま)地方を含め150万石になり西軍に加担し、東軍に付いた最上氏と対峙した。上杉景勝の重臣直江兼続は2万余の大軍で長谷堂城を攻めた。
守将は義光の重臣志村伊豆守光安であり、数千名で守り、地の利を生かし激戦に耐え、一方上杉勢は溝口左馬之助、上泉主水等の猛将が討ち死にするなど被害を出した。半月を経た九月関ヶ原の戦いで東軍の勝利の報に接した兼続の大軍は、これまでと引き上げた。死者は2200名にのぼった。
慶長六年(1601年)、志村伊豆守光安は酒田東禅寺城3万石に転封、長谷堂城は坂紀伊守光秀、坂光重と継がれた。
元和八年(1622年)最上氏のお家騒動で藩主最上義俊が改易され、周辺諸藩により軍勢を出させられ各城を受け取させられたが、長谷堂城は皮肉にも上杉景勝であった。尚、兼続はすでに死去しており、景勝も翌年死去した。その後廃城となった。