難波田城 (なんばたじょう) (南畑城)
所在地 埼玉県富士見市下南畑568‐1 2013.11.27
難波田城 (なんばたじょう) (南畑城)
所在地 埼玉県富士見市下南畑568‐1 2013.11.27
本丸跡・冠木門
墓碑・館跡碑
二ノ丸跡・木橋
追手門
堀・四阿
難波田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 「市立難波田城資料館」(表記番地)の西側は古民家を移築した公園となっており、南側に駐車場が用意されている[マップコード5 683 372*81]。
駐車場の北に「旧鈴木家表門」左手に「旧大澤家住宅」右手に「旧金子家住宅」、資料館が建てられている。
東側に水堀がめぐり、土塁など良く整備された本丸跡がある。北側に「難波田直治郎墓」「難波田氏館跡」の石碑が建てられている。南に水堀を挟んで二ノ丸跡がある。門や木橋が復元されている。
【歴史】 武蔵七党の一つ村山党の金子小太郎高範(金子氏館)は鎌倉時代の承久の乱に参戦し討死にした。
鎌倉幕府よりその恩賞として子孫に難波田の地を与えられ、難波田氏を名乗った。南北朝時代に、羽祢蔵合戦で高麗経澄の軍と戦って敗れた。
戦国時代になり、難波田弾正憲重(法名善銀) が扇谷上杉氏の重臣として活躍したが、天文十五年(1546年)河越夜戦で北条氏綱勢と戦い討死した。
その後、難波田氏の一族は北条氏の家臣となり、難波田の土地は北条氏の家臣上田周防守左近が支配した。
しかし天正十八年(1590年)秀吉の小田原攻めに際し、武蔵松山城と共に落城、廃城となった。