植野城 (うえのじょう) (堀田佐野城・佐野陣屋)
所在地 栃木県佐野市植下町 2015.1.11 2021.7.6
植野城 (うえのじょう) (堀田佐野城・佐野陣屋)
所在地 栃木県佐野市植下町 2015.1.11 2021.7.6
佐野城墟碑
堀田佐野城址公園・門
堀田佐野城址公園
土塁・堀田稲荷神社
東光寺中門
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道50号線「植下町」交差点の北60mより東に登りすぐ右折すると、柵で囲まれた所に「佐野城墟碑」(旧家老西村茂樹撰)の石碑、城郭図の石碑、説明板が建てられている(地図)。 その東に「堀田佐野城址公園」があり、駐車場が用意されている[マップコード64 430 671*05]。
佐野市植下町にある東西540m南北360mの規模の佐野藩の藩庁陣屋跡で、堀田氏は当時城主格とされていたので植野城と呼ばれる。
陣屋跡は住宅地や畑地となり、土塁の一部が残りその上に堀田稲荷神社が祀られている(地図)。その東の「泉水」跡が城址公園の池となっている。
なお、遺構として大手門が東光寺(市内寺中町2337)中門として、また裏門が市内赤坂町、中門が市内田島町のそれぞれ民家に移築されている。
【歴史】 佐野房綱が豊臣秀吉に仕え、その後、養子の佐野信吉が後を継ぎ、慶長七年(1602年)佐野城を築き唐沢山城より移ったが、慶長十九年(1614年)信吉は実兄の伊予国宇和島藩主・富田信高の改易に連座する形で改易されてしまった。
その後、佐野藩は天領となるが、下野国古河藩主であった時の老中(後の大老)・堀田正俊の次男の堀田正高が貞享元年(1684年)に分知により、1万6千石で佐野藩主となり陣屋を築いた。正高は城主格であったため植野城と呼ばれた。
元禄十一年(1698年)正高は近江国堅田藩に転封され、佐野陣屋は廃されるが、正高より4代目の堀田正敦が文政九年(1826年)再び佐野の地に移封され、文政十一年(1828年)陣屋を改めて築いた。
明治二年(1869年)正敦より数えて、四代の堀田摂津守正頌(まさつぐ)の時、明治維新を迎え、版籍奉還をして廃城となった。
明治九年(1876年)七月に堀田家の菩提寺の東光寺に大手門が移築された。