平塚城 (ひらつかじょう)
所在地 東京都北区上中里1-47 2016.1.31
平塚城 (ひらつかじょう)
所在地 東京都北区上中里1-47 2016.1.31
蝉坂・平塚神社
平塚神社・右説明板
拝殿横の高台
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 京浜東北線「上中里駅」の西に位置し「平塚神社」(表記番地)境内となっている。都道455号線(本郷通り)「平塚神社前」交差点より、北に行くとすぐ左に参詣用駐車場がある[マップコード854 865*01]。
平塚神社を中心とした一帯が平塚城跡とされている。拝殿前に神社縁起説明板が建てられ、裏側が塚状に小高くなっている(地図)。東の道路(蝉坂)より高低差があるが、遺構は見当たらない。
【歴史】 「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」によれば、平安時代に豊嶋郡の郡衙があった場所に豊島近義が築城したと伝えられる。
後三年の役の帰路に源義家、義光、義綱兄弟がこの館に逗留し、手厚いもてなしに感謝した義家は鎧一領と十一面観音像を下賜した。後に、この鎧を城の守り本尊として埋めて塚を築いた。これを鎧塚(甲冑塚)という。また、この塚が高くなく、平たかったことから「平塚」の地名が生まれた、ともされている。
平塚神社は豊島氏が義家、義綱、義光の徳を慕って三人の宿泊の地に社を営み、影像を奉祀したことが起源とされており、このことから社は昔「平塚三所大明神」と呼ばれていた。
室町時代中期頃に、豊島氏は石神井城を築いて本拠とし、練馬城・平塚城はその支城となった。
豊島氏は扇谷上杉定正の重臣で江戸城主・太田道灌と対峙したが、文明八年(1476年)永尾景春の乱に呼応して、豊島泰経とその弟泰明はそれぞれ石神井城と平塚城に拠り挙兵した。
文明九年(1477七年)太田道灌は平塚城を攻め、後詰戦(江古田・沼袋原の戦い)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に落ちのびた。
太田道灌は、文明九年(1477年)四月泰経を攻め石神井城を落とし、泰経は平塚城、更に小机城へと落ちのびた。
江戸時代、将軍徳川家光の頃に神社は検校・山川城官貞久によって再興され、家光から寺領50石の寄進を受けた。