世田米城 (せたまいじょう)
所在地 岩手県気仙郡住田町世田米 2017.7.9
世田米城 (せたまいじょう)
所在地 岩手県気仙郡住田町世田米 2017.7.9
登城ルート
世小の森公園
主郭・鳥居
主郭・八幡神社
社殿北側平坦地
浅沼甲斐信康館趾碑
2郭間の空堀
2郭
世田米城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【感想】 気仙川左岸の標高120.8mの山頂にあり、八幡神社が建てられている。東西約100m南北約200mの規模で、中央に土壇が残っている。
東側に下ってゆくと空堀があり、その東にはっきりとしないが畑となっている2郭がある。
【案内】 国道340号線(高田街道)と国道107号線(盛街道)の交差点南東に「世小の森公園」があり、駐車できる[マップコード373 189 051*54](地図)。公園入口に説明板が建てられている。
公園南側より登ってゆくと本丸に神社が建てられている。社殿左奥に「浅沼甲斐信康館趾」の石碑が建てられ、土壇があり、その北側も広い平坦地となっている。
【歴史】 室町時代初期、当時の領主葛西晴信が隣国遠野領からの侵入に備えて阿曽沼氏をこの地に配したのに始まると云われる。
気仙二十七城の一つで、戦国時代末期の城主は葛西氏の家臣遠野阿曽沼氏の一族、阿曽沼甲斐守信康であった。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏の領地が没収されると、この地は伊達領になり、伊達領最北端の南部氏の侵入を防ぐ境目の城となった。
このとき、遠野阿曽沼広長も領地を没収され南部氏の被官とされた。広長は、伊達氏に従った世田米阿曽沼氏から正妻を迎えていた。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いのとき、広長は、徳川家康の上杉景勝攻めに出陣の留守中、家臣の謀反に遭い遠野の横田城(鍋倉城)を奪われ、阿曽沼信康を頼って世田米城に逃れた。
広長は、伊達政宗の後援を受けて、慶長六年(1601年)十二月、世田米阿曽沼氏らと共に気仙勢を借り受けて遠野奪還を試みたが失敗し、没落した。