丸岡城 (まるおかじょう)
所在地 山形県鶴岡市丸岡町の内36 2015.6.13
丸岡城 (まるおかじょう)
所在地 山形県鶴岡市丸岡町の内36 2015.6.13
濠・土塁
泉水跡
御居間・長局
御城稲荷・城跡碑
清正公五輪塔
丸岡城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 天沢寺(表記番地)の南に東西約110mにわたって濠、土塁が復元され、丸岡城跡史跡公園となっている。濠の北に駐車場が用意されている[マップコード90 040 425*83]。
東側に大手門跡があり、城跡碑・説明板が建てられている。土塁の横に御城稲荷があり、丸馬出しがある。中央に御書院・御居間の建物礎石が保存され、太夫石・巫女石がある。御庭の泉水があり水路が発掘展示されている。公園は東西140m、南北150m程である。
現在は、南側の一部は宅地となり、他はほとんど畑になっている。天沢寺の西に清正閣、忠広公家士10名の墓、清正公五輪塔覆堂がある(五輪塔がガラス越しに見られる)。
【歴史】 庄内と内陸部を結ぶ六十里越街道沿いの要地にある城で、鎌倉時代よりこの地方を支配する武藤氏の支城がおかれていた。
武藤氏のあと上杉氏、最上氏と領主が変わったが、慶長二十年(1615年)六月の一国一城令により取り壊された。
元和八年(1622年)最上氏が改易され、庄内藩主酒井忠勝の領地となった。寛永九年(1632年)に肥後54万石の藩主加藤忠広が幕府より1万石で改易となり、酒井氏に預けられた。酒井忠勝はこの城に忠広の居館などを造り居住させた。承応二年(1653年)忠広没後は幕府直轄領となった。
改易の際、加藤忠広は母正応院と共に清正の骨壺を密かに奉持し、太夫石の下に埋め、丸岡大火の翌年、現在の五輪塔に安置した。
慶安四年(1651年)六月正応院が没し、巫女石の下に土葬された。忠広の遺言が聞き届けられ、屋敷に土葬してあった母・正應院の遺骸と一緒に本住寺(鶴岡市三光町1‐46)に葬られ、墓も並んで造られた。