鶴ヶ岡城 (つるがおかじょう) (大宝寺城・大梵寺城) (日本さくら名所100選)
所在地 山形県鶴岡市馬場町4‐7 2013.8.1
鶴ヶ岡城 (つるがおかじょう) (大宝寺城・大梵寺城) (日本さくら名所100選)
所在地 山形県鶴岡市馬場町4‐7 2013.8.1
案内図
内堀・石垣
本丸御殿跡
荘内神社
鶴岡護国神社
石塁
大寶館
鶴ヶ岡城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 本丸敷地は鶴岡公園となっており、2m位の低い石垣、土塁と巾20m位の水堀が周囲に残っている。県道349号線に面して駐車場が用意されている[マップコード90 219 046*04]。
北西の隅に本丸隅櫓跡があり、南西に護国神社、その東に渡櫓跡、大寶館(表記番地・大正四年築)が建ち、中央に庄内神社が建っている。門の石垣、石塁が残っている。
本丸を囲むように二の丸跡があり、外堀は「こども釣堀」として利用されている。
【歴史】 鎌倉時代初期に出羽国大泉庄の地頭に封じられた大泉氏が築城した。後に武藤大宝寺氏を名乗り、室町時代に入ると武藤長盛なる武将がこの地に権勢をふるう。
天文元年(1532年)砂越氏維(うじふさ)によって大宝寺城は焼失し、当時の武藤大宝寺城主の晴時は本拠を西にある尾浦城に移した。その後越後上杉氏と組み、庄内地方を統一し、武藤義氏のとき最高潮となったが、天正十一年(1583年)最上義光と結んだ家臣の前森蔵人らにより自害に追い込まれた。
庄内地方は、上杉氏、最上氏の争奪の地となり、期に乗じた上杉景勝によって天正十六年(1588年)あっけなく併呑された。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、上杉氏は西軍に加担したことで、会津120万石から米沢30万石に減封され、これに代わって山形城の最上義光が24万石から57万石の大大名となった。大宝寺城、東禅寺城、尾浦城を整備拡張した。
慶長八年(1603年)各城の整備が整うと、酒田浜に大亀が上がったことを祝し東禅寺城を亀ヶ崎城と改称した。この時に、亀ヶ崎に対し大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称されたのである。また同時に尾浦城も大山城と改称された。
三代最上義俊の元和八年(1622年)お家騒動(最上騒動)が起き改易となった。旧最上領は分割され庄内には、松代城より譜代の酒井忠勝が入った。忠勝は鶴ヶ岡城を本城とし、亀ヶ崎城(旧東禅寺城)を支城とした。
以後明治維新まで酒井氏の所領であった。本丸には御殿と北西隅櫓が天守代用され、東南隅に二重櫓が、櫓門が二か所設置された。稲荷神社(1704年)、藩校「致道館」(1809年)が設置された。
慶応四年(1868年)の戊辰戦争で会津と共に強硬派として政府軍や列藩同盟を脱退した秋田、横手などと戦い、会津が降伏したのち明治と改元された九月二五日迄戦った。
明治四年(1871年)廃藩置県で廃城となった。明治九年(1876年)稲荷神社を残し、破却され鶴岡公園となった。明治十年、酒井忠勝を祀る庄内神社が設置された。
昭和二十五年(1950年)三の丸に致道館博物館が建てられた(地図)。