会津新宮城 (あいづしんぐうじょう) (新宮城) (国の史跡)
最寄地 福島県喜多方市慶徳町新宮新宮500 2013.11.9 2021.5.25
会津新宮城 (あいづしんぐうじょう) (新宮城) (国の史跡)
最寄地 福島県喜多方市慶徳町新宮新宮500 2013.11.9 2021.5.25
新宮城址碑
本郭内
北側内堀
北東内堀
西側内堀
会津新宮城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 表記番地より県道336号線を北に約400m行くと、県道に沿って城跡の石碑が建てられ、駐車場が用意されている[マップコード97 730 230*66]。
新宮熊野神社の500m北に位置し、鎌倉時代、新宮時連により築かれた。
周囲を二重の空堀と土塁で区画された複郭式の一辺が約140mの方形館であったが、現在、個人の敷地であり、状態はあまり良くなく、畑の本郭と周りに土塁と堀跡が残るのみである。
平成21年(2009年)年7月23日、国の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉御家人佐原義連の子・佐原盛連の長男・経連は猪苗代氏、次男・広盛は北田氏、三男・盛義は金上氏、四男・光盛は蘆名氏、五男・盛時は加納氏、六男時連は新宮氏を名乗り、新宮城を築いた。
鎌倉時代末頃、時連は宝治合戦の際、三浦氏一族にも関わらず北条時頼に味方し、その功として新宮庄(現・喜多方市)地頭職を与えられた、当地の地頭として勢力を保ち、新宮熊野神社に寄進された銅鐘が残っている。
以後、新宮氏は約200年にわたり新宮城に拠って新宮庄一帯を支配する事となった。室町時代に入ると、加納氏やのちに戦国大名となる黒川城の蘆名氏とたびたび争い、城も合戦の舞台となった。
応永九年(1402年)には加納氏を滅ぼし、北田城の北田氏と同盟を結んで蘆名氏に対抗した。
応永二十二年(1415年)に蘆名氏に攻められ、応永二十五年(1418年)から応永二十七年(1420年)にかけて会津各地で新宮氏と蘆名氏の戦いが繰り広げられた。
そして応永二十七年(1420年)7月に新宮城は落城し新宮氏は越後に逃れ、最後は永享五年(1433年)小河荘(現新潟県東蒲原郡阿賀町津川)において蘆名氏により討たれ滅ぼされた。