倉賀野城 (くらがのじょう)
所在地 群馬県高崎市倉賀野 2013.12.17
倉賀野城 (くらがのじょう)
所在地 群馬県高崎市倉賀野 2013.12.17
雁児童公園・説明板
公園にある城跡碑
堀跡
倉賀野城跡碑(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道121号線「東国文化歴史街道」の「上町」交差点より南に350m行った烏川の北岸の「雁児童公園」の敷地に「倉賀野城趾」の石碑及び説明看板が建てられている。
北側の住宅地から道があるが駐車スペースは少ない[マップコード20 425 863*01]
遺構は殆ど残っていないが、堀の跡(地図)が「カリガネヒル」の西、住宅の間に見て取れる。
【歴史】 治承年間(1177~81年)、秩父三郎高俊が居館を構え、倉賀野氏を名乗ったのが始まりである。南北朝時代に倉賀野光行が館を改修し倉賀野城を築いた。
戦国時代には城主の倉賀野行政が関東管領・上杉憲政に仕えたが、天文十五年(1546年)の河越夜戦で戦死した。そのあと倉賀野尚行が城主となり、金井秀景や須賀佐渡守をはじめとする倉賀野十六騎と城を守った。
永禄年間(1558~70年)に後北条氏が上野を領国化したが、このとき、上杉憲政の旧居城・平井城ではなく、倉賀野城が北条氏の領国経営の中心になっていたとみられる。
しかし上杉謙信が永禄三年(1560年)に越山してくると、倉賀野氏はすぐに箕輪長野氏と共に上杉氏に従った(『新編高崎市史』)。
倉賀野城は上杉方の長野氏が拠る箕輪城の支城としての役割を果たしていたため、永禄四年(1561年)には甲斐国の武田信玄による西上野侵攻で競られ、金井秀景らが武田方に与するなど内部分裂もあり、永禄八年(1565年)に落城した。倉賀野尚行も謙信を頼って越後に逃れた。
元亀元年(1570年)、武田氏に従っていた金井秀景が城主となり、以降は姓を改め倉賀野秀景と名乗った。天正十年(1582年)、武田氏が滅亡すると、秀景は滝川一益に従ったが、本能寺の変の後は北条氏直に仕えた。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、秀景は北条方武将として小田原城に籠城し、結果、小田原落城と共に倉賀野城も降伏・開城し、その後は廃城となった。