小田山城 (おだやまじょう)
所在地 福島県会津若松市門田町大字黒岩 2021.5.25
小田山城 (おだやまじょう)
所在地 福島県会津若松市門田町大字黒岩 2021.5.25
登城ルート(緑線は車道)
公園入口・標柱
小田山城大手口
丹羽能教の墓
主郭の城址標柱
物見櫓跡
南側堀切
17代葦名盛興公の墓
小田山城 物見櫓跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高110m】
【感想】 若松城の南西約1.5kmに位置する標高372mの小田山に築かれており、北側斜面に階段状の曲輪が並んでいる。
曲輪には「丹羽能教の墓」、「田中玄宰の墓」が祀られている。物見櫓跡の南北に堀切が見られる。以前冠木門が大手にあったようだが、撤去されたのか見当たらなかった。
頂上からは会津若松市が眼下に一望でき、若松城の天守も見える。
【案内】 県道64号線より市道「小田山通り」に入り、「葦名家廟所」入口がある。廟所には東から18代盛隆、16代盛氏、17代盛興の塚が並んでいる。
「葦名家廟所」入口の先に小田山公園駐車場入口がある[マップコード97 233 712*46]。南へ200m程行くと駐車場がある(地図)。
歩道を登った北端に葦名家壽山廟跡(下)や文和三年(1354年)葦名7代直盛の母笹谷御前が建立したという観音堂跡がある。
物見台まで曲輪を縫って約1.3kmの歩道が設けられ、その間に「新政府軍砲陣跡」、曲輪跡、「大手口」、2郭に「丹羽能教の墓」、主郭に「田中玄宰の墓」がある。
物見櫓跡より南に70m程行くと堀切がある(この付近)
【丹羽能教(よしのり)】(1766~1843年)
会津藩士で軍事奉行、若年寄を経て家老になり、5代藩主松平容頌(かたのぶ)以来4代の藩主に仕えた。
文化五年(1808年)会津藩は幕府に北方警備を命じられ、能教は軍事奉行として遠く樺太に出陣した。さらに文化七年には江戸湾警備を命じられ三浦半島に砲台を築き、海防に尽力した。
【田中三郎兵衛玄宰(はるなか)】(1748~1808年)
名家老田中正玄の4世の孫に生まれ、若くして田中家を相続し、34歳で家老になり後に大老になった。
松平容頌(かたのぶ)、容住(かたおき)、容象(かたひろ)の3代の藩主に仕え、藩政の改革を行った。
養蚕、漆木、薬用人参、紅花の栽培や漆器、酒造、蝋燭、陶磁器の手工業の殖産興業を勧め、藩校「日新館」を創設して人材を養成した。
【歴史】 三浦半島を本拠とする三浦義明の十男・佐原十郎義連が文治五年(1189年)会津を拝領した。3代光盛の時、領地としていた相模国三浦郡葦名(現横須賀市)の地名に因んで葦名氏を名乗ったと云われる。
会津に移ったのは7代葦名直盛の時で、元中元年/至徳元年(1384年)に黒川城(後の若松城)の前身となる東黒川館を築いたと伝わる。小田山城はその後、東黒川館の詰城として築かれたと考えられる。
永禄十一年(1568年)16代葦名盛氏が居城黒川城の詰城として、向羽黒城を築き移るまで機能していたものと考えられる。