土浦城 (つちうらじょう) (亀城) (県の史跡)
最寄地 茨城県土浦市中央1‐15-18 2013.9.22 2020.7.5
土浦城 (つちうらじょう) (亀城) (県の史跡)
最寄地 茨城県土浦市中央1‐15-18 2013.9.22 2020.7.5
虎口・土橋・東櫓
東櫓
西櫓
太鼓櫓門
二の丸南東側・前川口門
二の丸西側の濠
民家移築高麗門
土浦城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道125号線「亀城公園北」交差点より西に行った「市立博物館」(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード65 878 748*71]。
南側に濠を挟んで「亀城公園」として一般開放されている。
周囲に石垣のある濠、土塁が残る。本丸には、現存する太鼓櫓門、霞門が建っており、2011年3月東北大震災で被災した「西櫓」が復元されている。
西から南にかけて残る二ノ丸には、「聖徳太子堂」が建てられ、土塁が残り「前川口門」が保存されている。
昭和27年(1952年)11月18日、茨城県の史跡に指定された。
また、市内の民家に移築高麗門が保存されている(土浦市木田余3140)(地図)。
【歴史】 永享年間(1429~41年)に常陸守護・八田知家の後裔小田氏に属する若泉三郎が築城した。
永正十三年(1516年)若泉五郎左衛門の時、小田氏の武将・菅谷勝貞により城を奪われた。
天正十八年(1590年)豊富秀吉の小田原征伐の折、菅谷範政は北条方に付いたため佐竹氏や徳川家康勢に攻められ、主君の小田氏とともに滅亡した。
家康の関東入りに伴い、次男で結城氏に婿入りした結城秀康が城主となった。秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封した。
その後松平信吉の代に5千石の加増を受けた。天和三年(1617年)信吉が上野国高崎に転封になると、西尾忠永が2万石で入封、以後城主は西尾氏、朽木氏と代わり、寛文九年(1669年)土屋数直が4万5千石で入封した。
天和二年(1682年)駿河国田中に転出。入封した松平信興が貞享四年(1687年)大阪城代に転封すると再び土屋直政が6万5千石で入封。以後三度の加増で9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次ぐ領地となり以後、11代200年間を世襲し明治維新を迎えた。
明治六年(1873年)一月に、太政官符令第84号で土浦城は廃止された。本丸御殿は新治県の県庁、後に新治郡の郡役所として使われた。本丸の他の建造物もほとんど残されたが、土塁上の塀は取り壊された。二の丸以下の建物は外丸御殿を除き取り壊され、堀が埋められた。
明治十七年(1884年)に火災で本丸御殿が失われた。このとき損傷した本丸東櫓と鐘楼が撤去された。
平成十年(1998年)には東櫓が土浦市立博物館の付属展示館として復元された。