唐沢山城 (からさわやまじょう) (栃本城・根古屋城・牛ヶ城)
所在地 栃木県佐野市富士町1409 2013.11.10 2022.7.27
唐沢山城 (からさわやまじょう) (栃本城・根古屋城・牛ヶ城)
所在地 栃木県佐野市富士町1409 2013.11.10 2022.7.27
登城ルート
城址碑・大手門跡・くい違い虎口
大炊の井
四つ目堀
三の丸(帯曲輪)
二の丸跡
本丸跡・唐澤山神社
唐澤山神社
本丸西の石垣
長門丸(花畑)・土塁
金ノ丸・青年の家
杉曲輪
杉曲輪東の堀切
平とや丸
唐沢山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道141号線の峠付近から右折して行くと「唐沢山レストハウス」、「唐沢山荘」があり、駐車場が用意されている[マップコード64 672 155*53]。入り口に「唐沢山県立自然公園」、「唐沢城跡」の石碑が建てられている。
大手のくい違い虎口や井戸、四つ目堀がよく残り、特に本丸西側の野面積の高石垣は素晴らしい。
本丸、二の丸には石塁が良く保存され、本丸の唐澤山神社(明治十六年建立)に藤原秀郷公が祀られている。
本丸の東に長門丸があり、土塁が残っている。金ノ丸には昭和三十八年築の「栃木県唐沢青年自然の家」(休館)が建てられており、東側に土塁がよく残っている。東隣に杉曲輪、堀切、「平とや丸)」(北城) と並んでいる。
【歴史】 延長年間(923~931年)藤原秀郷により築城された。天慶三年(940年)平将門による天慶の乱に際し、秀郷の活躍により鎮圧し、この功により武蔵・下野両国の鎮守府将軍となった。その後、5代にわたりここに居城した後、六代成行は足利荘に移り、一時廃城となった。
平安時代末期の治承四年(1180年)9代俊綱の弟成俊は、城を再興し佐野氏を名乗った。鎌倉時代に入った建保元年(1213年)成俊は30余年の歳月をかけて城を完成させた。
室町時代中期の延徳三年(1491年)には佐野盛綱が城の修築を行った。戦国時代の佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。
当初、越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は、永禄二年(1559年)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、一族間で「唐沢山天正の乱」と呼ばれる争いが起こった。これにより佐野氏は上杉氏と決別するに至った。
天正四年(1576年)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵をもってこの城を攻めたが、一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により上杉軍を撤退させた。
天正十三年(1585年)佐野宗綱が足利長尾氏の当主長尾顕長との戦いで戦死した。跡目相続で重臣たちは二つに割れたが、天正十四年(1586年)に北条氏康の六男・氏忠を養子に迎え北条氏と和議を結んだ。
天正十八年(1590年)の小田原征伐では当主佐野房綱は豊臣秀吉方に付き、城内の北条勢を一掃した。文禄二年(1593年)豊臣氏家臣富田一白の二男・信種を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り佐野信吉と名乗った。
慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦では、当主佐野信吉は徳川方につき佐野藩が成立した。慶長七年(1602年)佐野城の築城により転居し、廃城となった。
明治十六年(1883年)有志により本丸跡に唐澤山神社が建立された。