忍城 (おしじょう) (忍の浮き城・亀城)
所在地 埼玉県行田市本丸17-23 2010.10.10 2014.1.6 2016.11.19 2021.4.30
忍城 (おしじょう) (忍の浮き城・亀城)
所在地 埼玉県行田市本丸17-23 2010.10.10 2014.1.6 2016.11.19 2021.4.30
本丸土塁
復元三階櫓・東門
内堀
移築北谷門(總願寺)
石碑(石田堤右)
忍城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 行田市本丸に築かれ、湿地帯の島を曲輪とした平城で、当時の沼の名残は、南東にある水城公園に見て取れる。
本丸土塁が残り三階櫓が外観復元されている。郷土博物館と廊下で結ばれた三階櫓には、忍城に関する資料や足袋製造など行田市の歴史資料などが展示され、200円で観覧できる。
また南方約4kmに、天正十八年、石田三成軍による水攻めで使用された石田堤の一部が残っており、水攻めの範囲は広大であった事が解る。
【案内】 県道128号線より入った行田市郷土博物館(表記番地)の駐車場が用意されている[マップコード14 789 139*36](地図)。
本丸土塁が一部残り、城の東側の内堀には木橋が架けられ、東門が復元されている。柳の街路と相まって城下町の風情が残る。
總願寺(加須市不動岡2丁目9−25)には、忍城の北谷門が移築保存されている。
また、南方約4kmに「石田堤」が約200mにわたって残り、堤の上に石碑が建てられている。「石田堤歴史の広場」(行田市堤根1245-1先)として整備され、駐車場が用意されている[14 672 485*77](地図)。
堤防の南西側は元荒川の内側に築かれ、石碑のある所から北方の丸墓山古墳(埼玉古墳群)を通って北に伸び、総延長は28kmに及んだという。
【歴史】 文明十年(1478年)成田氏13代正等・14代顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉氏に属する忍一族を滅ぼし、築城したと伝えられている。
太田氏の勢力再興とともに永正六年(1509年)支城の忍城に移った。その後、子の15代親泰が入り領土拡大に努めた。
永禄二年(1559年)上杉謙信が関東に侵攻してくると、成田氏は恭順をした。
永禄四年(1561年)の謙信による小田原攻めの際に16代成田長泰はこれに従った。しかし鶴岡八幡宮での関東管領就任式後離反、謙信に忍城は攻められたが、持ちこたえた。
天正十八年(1590年)の秀吉の小田原征伐の際には、17代成田氏長は小田原城内に立て籠もり、従兄弟の長親を城代として家臣500名と農民2500名で石田三成の率いる秀吉軍と戦った。水攻め(現在石田堤が遺る)に合い、持ちこたえたが先に小田原が陥落し、開城に応じた。
家康の関東入部後、家康の四男松平忠吉が十万石で封じられたが、関ヶ原の戦いの後清須に移った。その後城番が置かれ周辺の河川改修や農業開発が行われた。
寛永十年(1633年)松平伊豆守信綱が老中に任じられ3万石で忍城に移封された。寛永十六年(1639年)川越藩に移封の後、阿部忠秋が入ると忍城の拡張整備がおこなわれ元禄十五年(1702年)忍城御三階櫓が完成し、阿部氏が184年間続いた。
文政六年(1823年)阿部氏が白河に移り、桑名から松平忠堯が入った。
明治に入り廃藩置県で「忍県」の県庁が置かれたが、その後廃城となり、ほとんどの建物は撤去された。