小田城 (おだじょう) (国の史跡)
最寄地 茨城県つくば市小田2413 2013.11.2 2016.2.21
小田城 (おだじょう) (国の史跡)
最寄地 茨城県つくば市小田2413 2013.11.2 2016.2.21
縄張り図
堀・北虎口・土橋
本丸跡・土塁
本丸櫓台・城墟碑
南西馬出曲輪
東曲輪跡
小田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 「小田保育所」(表記番地)の南に本丸が位置する。「(仮称)小田城跡案内所」が建てられ、駐車場が用意されている[マップコード123 268 043*14](地図)。
本丸を中心に東西約500m、南北約600mに亘って大小の曲輪や三重の堀が巡らされていた。内堀を含めて東西約160m南北約190mの長方形で、約10m巾の内堀が本丸周囲にめぐらされている。
東側に東曲輪跡がある(地図)。土橋を渡ると高さ3m位の土塁が本丸周囲にめぐらされている。本丸内に説明版が建てられ、南東隅に櫓台があり、「小田城墟之碑」の石碑が建てられている。南西に堀で隔てられ、橋の架けられた馬出しがある(地図)。
2013年の当日は発掘調査中であった。周囲には人家は少なく、見晴しは良い。畑の合間に二の丸の堀の跡が覗える。
昭和十年(1935年)6月7日、国の史跡に指定された。
【歴史】 藤原道兼(北家 道長の兄)の子孫八田宗綱の次男(長男は宇都宮朝綱)八田知家により12世紀末築城された。知家は常陸国の守護となり建久四年(1193年)多気義幹を亡ぼし常陸国南部に勢力を広めた。4代時知に至り小田氏を名乗った。
鎌倉幕府が亡びると、7代治久は新政府に参加、南朝に味方した。治久は延元三年(1338年)北畠親房を小田城に迎え関東における南朝の中心となって活躍した。親房は城中で「神皇正統記」「職原抄」を執筆した。しかし高師冬に包囲され、翌年に治久は師冬に降り、親房は関城へ移った。
戦国時代に入ると小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の争奪戦が続いた。15代氏治は永禄十二年(1569年)手這坂の合戦に敗れ土浦へ逃げた。
佐竹氏は梶原政景に小田城を守らせ、大規模に改修を行った。
慶長七年(1602年)佐竹氏は出羽国秋田へ国替えされ、それに伴い廃城となった。
系譜は、藤原道兼(北家 道長の兄)・・・宗円(宇都宮座主)-八田宗綱-1知家―2知重―3泰知-4時知―5宗知―6貞宗―7治久―8孝朝―9治朝―10持家―11朝久―12成治―13治孝―14政治―15氏治。 『つくば市教育委員会説明板』より。