田舎館城 (いなかだてじょう)
最寄地 青森県南津軽郡田舎館村田舎舘中辻167 2014.8.3 2016.6.7
田舎館城 (いなかだてじょう)
最寄地 青森県南津軽郡田舎館村田舎舘中辻167 2014.8.3 2016.6.7
説明板
田舎館村役場・門
田舎館村役場
生魂神社・濠跡
5代千徳掃部追遠碑
残存土塁・サイカチ大樹
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道268号線に面した生魂神社(表記番地)に「千徳掃部追遠碑」「義士列婦碑」が建てられ、西側に堀川が残っている。
その西より北に100mほど行くと、土塁が残り、説明板、「田舎館城四百年祭記念碑」の石碑が建てられている[マップコード71 171 352*82](地図)。
また西に県道268号線を約150m行くと、田舎館村役場に城門、城郭風庁舎が建てられている。
村役場の東の田では毎年、7月下旬を中心に「田んぼアート」が見られる。
サイカチ大樹は樹齢400年以上で、大浦為信との戦いで討死した田舎館城主千徳政武以下300余名を埋葬した時の供養樹と云われている。
【歴史】 築城時期は明らかではない。しかし建武三年(延元元年・1336年)と同四年、当時田舎館地方を支配していた工藤右衛門貞行と、平賀郡地頭職であった曾我貞光が争った田舎館合戦の際には既に城館があったものと思われる。
その後、文明七年(1475年)南部氏一族で浅瀬石城主・千徳政久の次子である千徳大三郎貞武(政実)が田舎館城主となった。
天正十三年(1585年)五月、田舎館千徳氏5代掃部政武の代に、田舎館城は大浦(津軽)為信が率いる600騎に攻められ、城主政武以下330人余が自害・討死して落城した。
この戦いで政武の妻である於市は逃げ延びたが、為信が津軽統一後の慶長六年(1601年)三月、敵味方合同の清水森大法会の際、祭壇の前に進み焼香を終えた後、その場で自刃して果てたという。