大宝城 (だいほうじょう) (国の史跡)
所在地 茨城県下妻市大宝725‐1 2013.11.3
大宝城 (だいほうじょう) (国の史跡)
所在地 茨城県下妻市大宝725‐1 2013.11.3
説明案内板
南側土塁・空堀跡
鳥居・土塁
大宝八幡宮
笑門
下妻政泰忠死之地の石碑
北側にある大宝城址碑・土塁
北側の土塁・空堀
大宝城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 関東鉄道常総線「大宝駅」の東の台地上にある。約300m行った大宝八幡宮(表記番地)一帯が南北朝時代の大宝城跡である。
東西288m・南北576mで台地の北方を本丸、南方を大手、東を搦め手としていた。神社の南は市立大宝小学校や民家の敷地となっている。
南側の大鳥居横に高さ約3mの土塁と道路となった空堀跡が残っている。
神社拝殿の脇に笑門があり、拝殿北側に「下妻政泰忠死之地」石碑が建てられ、拝殿北側下段に「大宝城址土塁」碑が建てられ、土塁・空堀が残っている(地図)。
昭和九年(1934年)5月1日、国の史跡に指定された。
【歴史】 平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡である。西、北、東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して築城された要害であった。
1341年(興国2年・暦応4年)11月、春日中将顕国が興良(おきなが)親王を奉じて小田城より移ってから、東国における南朝の拠点となった。
その後、北朝方の猛攻を受けて苦戦を続け、食糧不足と城内不和のため、1343年(興国4・康永2年)11月12日落城し、城主下妻政泰は討死した。