板橋城 (いたばしじょう)
最寄地 栃木県日光市板橋707 2021.7.25
板橋城 (いたばしじょう)
最寄地 栃木県日光市板橋707 2021.7.25
登城ルート
登り口
愛宕神社・羽黒山神社
駒乗り馬場
北側切岸・浅い堀
北の郭
堀切・竪堀
主郭・四阿
板橋城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高150m】
【感想】 遊城坊(宇都宮氏一族)により、標高443.5mの城山に築かれた城で板橋将監親棟により改築されたという。
北東から南西に伸びた山頂に2つの細長い郭から構成され、中間に堀切とそれに続く竪堀がよく残っている。
西側斜面は伐木が行われ、陣屋跡を望む眺望は素晴らしい。
【案内】 国道121号線より東に行った「上板橋集落センター」(表記番地)に駐車できる[マップコード132 612 534*30]。
100m程北に行った右側に登り口がある(地図)。さらに北に100m程行くと、左の常安寺跡に江戸時代になってから板橋将監の塔が祀られている(地図)。
階段を登って鉄塔前を右に歩く。北側の山頂に「愛宕神社」「羽黒山神社」の石宮があり、麓の板橋陣屋(館)跡が眼下に望める。
さらに南に登って行くと、「駒乗り馬場」の標識があり東尾根に廻ると馬場跡がある。
戻って急な階段を登ると北の郭、堀切を経て主郭に着く。
【歴史】 板橋郷は栗山郷と共に、代々宇都宮氏一族が住持を務める日光山の遊城坊(ゆじょうぼう)が治める寺領であり、永正年間(1504~21年)城山の砦と山麓の方形館(後の板橋陣屋)に居住した。
板橋氏は武蔵国(東京都)板橋領主の出で、小田原北条氏の被官だったが、天文年間(1532~55年)、北条氏と鹿沼城主壬生氏が同盟関係を結ぶと、壬生氏を援助するため当地に移った。
板橋将監親棟は遊城坊を追い払い、砦跡に板橋城を築き、ここを拠点として武威を振るい、天正四年(1576年)鹿沼右衛門の猪倉城を攻め落としている。
天正十八年(1590年)北条氏の滅亡により、親棟は板橋城を去り出家して山麓に常安寺を建て常安入道と称した。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、三ノ倉城より大給松平一生が1万石の譜代大名として板橋城に入城し板橋藩を立藩した。
一生の後を継いだ松平成重は大阪夏に陣で活躍、その功により元和三年(1617年)十月、2万石に加増され三河西尾城に移った。以後板橋城は廃城となった。