浅羽城 (あさばじょう) (萱方城)(かやがたじょう)
最寄地 埼玉県坂戸市鶴舞1‐2 2014.3.26
浅羽城 (あさばじょう) (萱方城)(かやがたじょう)
最寄地 埼玉県坂戸市鶴舞1‐2 2014.3.26
浅羽城跡公園
説明板
万福寺・板石塔婆
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 県道74号線より北に約200m行った浅羽城跡公園に「浅羽城跡」説明板が建てられている[マップコード14 090 301*72](地図)。説明板のある辺りが主郭と推定されている。
また始祖行成が鶴岡八幡宮から分祀したと伝わる八幡神社(坂戸市北浅羽262)がある。
浅羽氏の始祖・浅羽小大夫行成追善の板石塔婆が万福寺(坂戸市北浅羽193)に建てられている。
八幡神社北の越辺川南堤防に沿って早咲きの桜が1㎞にわたって植えられている。
【由来】 中世に坂戸市西部を領した浅羽氏が、戦国時代に本拠を構えた所と云われている。
武蔵七党(横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党)の一つ児玉党の始祖有道遠峯の曾孫資行が入西郡に住し、入西氏を名乗り、入西資行の子・行成(行業)が浅羽氏を名乗ったのが始まりとされている。
館は万福寺から八幡神社にかけて築かれていたと考えられるが、城、館とも遺構はほとんど消滅している。
団地造成前の地籍図や、福井県小浜市の酒井家文庫、広島市の浅野文庫などに残る絵図から、城跡は、ほぼ長方形の主郭を中心にいくつかの曲輪があり、主郭の南側には張出部があり、虎口(出入口)の守りを固めていたと推定される。『坂戸市教育委員会説明板』より。
【歴史】 浅羽氏は鎌倉幕府の御家人として、源頼朝の奥州征伐に参陣したことが『吾妻鏡』に記されている。
南北朝時代の暦応四年(1341年)から康永二年(1343年)にかけて、浅羽太郎左衛門尉・浅羽太郎兵衛尉が、別府幸実や毛呂八郎などと、常陸国の各地で南朝方と戦かった。
その後、永享の乱(1438年)では、鎌倉公方足利持氏方に属した浅羽下総守が、持氏の近臣である上杉憲直父子・一色直兼父子ともども称名寺(横浜市金沢区)で自害した。
永禄四年(1561年)小田原城の北条氏を攻めた上杉謙信方に参じた関東の武将を記した『関東幕注文』(上越市史別編1)に、浅羽下総守が岩付衆として名を連ねている。
その後浅羽氏は北条氏に仕え、天正十八年(1590年)小田原の役で、浅羽下総守は小田原城に籠り、浅羽城は落城、廃城となったと云われている。『埼玉の城址めぐり』(西野博道編著46ページ)より。