平良ヶ崎館 (ひらがさきだて)
所在地 青森県三戸郡南部町沖田面南古館 2014.8.13
平良ヶ崎館 (ひらがさきだて)
所在地 青森県三戸郡南部町沖田面南古館 2014.8.13
南部中学校碑
館跡・校舎跡
説明板
平良ヶ崎館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道4号線「南部町門前」交差点より北に県道233号線を290m行き右折し、「南部中学校」石碑横を登ると、高台の南部中学校跡地で芝草地となっている[マップコード209 873 288*36](地図)。
道路で隔てられた北の高台も郭跡と考えられる。
平良ヶ崎城は中世の平城で糠部(三戸)五ヶ城(三戸城・平良ヶ崎館・聖寿寺館・馬場館・大向館)の一つで、三戸城の北4㎞に位置する。正寿寺館は居館で、平良ヶ崎城は政庁であった。
【歴史】 南部光行は治承四年(1180年)、石橋山の戦いで源頼朝に与して功を挙げ、甲斐国南部牧(現在の山梨県南部町)を与えられた。このとき、南部姓を称したという。
文治五年(1189年)、奥州藤原泰衡追討の合戦で戦功を挙げ陸奥国糠部郡などを与えられた。
建久三年(1192年)の春、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いて次男で世子の三郎実光をここに留めて、光行は鎌倉に帰ったとされる。
光行には六人の息子がおり、長男の行朝は庶子のため一戸氏の祖となり、次男の実光が三戸南部氏を継ぎ、三男の実長は八戸氏の祖、四男の朝清は七戸氏の祖、五男の宗清は四戸氏の祖、六男の行連は九戸氏の祖になった。
昭和三十六年(1961年)向中学校と統合移転し、廃校となった。