久米城 (くめじょう)
所在地 茨城県常陸太田市久米町 2020.6.5
久米城 (くめじょう)
所在地 茨城県常陸太田市久米町 2020.6.5
登城ルート(緑線は車道)
鹿島神社鳥居から登る
鹿島神社
東の城2郭
東の城本城
東の城東側の大堀切
西の城主郭(テレビ中継局)
西の城主郭2郭間の堀切
北の出城手前の堀切
北の出城
久米城 本城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【感想】 常陸太田市久米町の鹿島神社のある標高104mの丘陵に築かれており、城域は東西250m南北約500mに及ぶ広大な縄張りとなっている。一周するのに1時間半位かかる。
現地のネーミングによると、北から「北の出城」「西の城」「東の城」「南の出城」と並び、「東の城」の主郭が本城でなだらかな緩斜面となっている。
切岸や堀切、横堀など数多く良好に残っており、比高は低いが草木が刈られ山城の姿を堪能できた。
【案内】 県道62号線の鹿島神社入口に見学者駐車場があり、説明板が建てられている[マップコード47 762 417*53]。
東へ行った鹿島神社参道から登ると、根子屋の上方に出、堀切を経て「東城」に着く。遊歩道が設けられ各所に標識が建てられている。
東城は東西に3つの郭から構成され、2・3間に通路となった堀切があり、2郭に鹿島神社が建てられ、主郭(本城)に久米城本城跡の標柱が建てられている。東に堀切があり、少し離れて久米城最大の堀切がある。
V字谷を隔てて北に「西の城」があり 、「西の城」の南側を西に行くと2重堀切があり「垂直の崖」が見られる。
戻って虎口を登ると段郭があり、その上の主郭に「竜神平テレビ中継局」が建てられている(地図)。背後の物見台に三角点がある。主郭西側に2つの郭が堀切で区画され、西端に堀切がある。
物見より北に2条の堀切、「北の出城」がある(地図)。
鹿島神社東より「南の出城」への道があり、2重堀切、堀切、ピーク、2重堀切、橋のある堀切を経て南の出城に着く(地図)。途中のピーク東にも2重堀切がある。
「南の出城」は東西に細長く、東尾根に1条、南尾根に2条、西に土橋のある堀切があり、小郭に続き、堀切は横堀に続いている。
【歴史】 鎌倉時代、大掾氏が館を設け居住したと伝えられる。
後に、小野崎氏の一族が築城し、久米氏を名乗り代々の居城とした。
3代通室には子が無く小貫頼重の子定春を養子に迎え通治と称した。
佐竹氏14代義治は山入城の山入氏の反乱に備え、久米氏を部垂城へ移し、義治の子義武を城主として久米氏を名乗らせ防備を強化した。
文明十年(1478年)11月山入義知は下野の那須氏の援軍を得て久米城を襲撃し、城主義武や小田野義安が討死し落城した。
同年12月、佐竹義治は岩城氏の支援を得て、山入義知を討ち取り久米城を奪還し、義武の弟義信を城主として山入氏に備えた。
この家系が佐竹北家として代々続き、佐竹本家の補佐として重要な役割を果たした。
慶長七年(1602年)佐竹氏の出羽国に国替えにより久米氏も同行し、以後廃城となった。