石峠館 (いしとうげたて) (内館・長受館)
最寄地 岩手県下閉伊郡山田町石峠第2地割28 2017.10.26
石峠館 (いしとうげたて) (内館・長受館)
最寄地 岩手県下閉伊郡山田町石峠第2地割28 2017.10.26
内館説明板
西側の空堀
阿部将生誕地の碑
豊間根邸(武家屋敷)
武家屋敷説明板
兜石・説明板
毘沙門堂・稲荷堂
内館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 津軽石川と荒川川が合流している北西の標高約37mの堆積地に位置している。
2011年3月11日に起きた東北大震災の津波で豊間根駅一帯は壊滅的被害を受け、6年たった今もあちこちに仮設住宅が見られた。
建設中の三陸自動車道工事で大半は消滅したのかも知れないが、その付近が館跡と思われる(写真)。古くは石至下と記され、史実から長年探していた石峠館で間違いないと思う。
【案内】 国道45号線より北に行った石峠集落の外れ、表記番地に武家屋敷(豊間根邸)があり、その前の道を西に約90m行くと「内舘(別名長受舘)」の説明板が建てられている[マップコード817 426 883*83](地図)。
西130mに空堀があると記されているので、その付近の写真を撮ってきた。
内館は説明板の北方約200mの小高い丘にあると記されているが、建設中の三陸自動車道が完成し、小高い丘自体が見当たらなかった(北北東300mの山に登ってみたが只の山であった)。
【歴史】 この舘は永禄九年(1566年)豊間根氏(原姓安倍氏)25代安倍傳五郎茂任の次男八郎光任の居館であった。兄七郎家任よりこの地をもらい受け地名を石至下(いしとうげ)と呼称し、姓も石至下(石峠)と改めた。
八郎光任は南部家一門、払川館主一戸鬼九郎行重の七客の一人で剛勇な人物であった。
天正十一年(1583年)一月、鬼九郎行重は本家千徳城主一戸治郎善勝へ年賀の為、重臣荒川佐介、八郎光任らを伴い千徳城に登城した。治郎善勝のかねてより準備していた不意打ちで、行重・光任ら7名が謀殺された。
内館主八郎亡き後、宗家傳七郎邑任は曽伊舘より天正十五年(1587年)四月、一族郎党59人を率いて曽伊舘より転任、石峠集落が形成された。正保二年(1645年)石峠集落の火災で焼失し東側100mの現在地に新築された。
阿部将翁生誕地の石碑があるが、本草学の祖・阿部将は豊間根家(原姓安倍氏)35代石峠孫左衛門盛任の4男として慶安三年(1650年)ここで生まれている。『現地説明板』より。