利府城 (りふじょう) (村岡城・森郷城)
最寄地 宮城県宮城郡利府町利府城内1 2016.8.4
利府城 (りふじょう) (村岡城・森郷城)
最寄地 宮城県宮城郡利府町利府城内1 2016.8.4
登城ルート(緑は二の丸/青は三の丸)
二の丸虎口
二の丸・憩いの丘
本丸東側
本丸跡・四阿
城跡碑
三の丸・冒険の丘
利府城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 城跡の北側に駐車場が用意されている[マップコード 110 313 031*87 ](地図)。また、利府小学校西側からも遊歩道が設けられ、二の丸の南東に虎口や段郭が残っている。全体は館山公園として整備されている。
最高所の本丸跡には四阿、城跡碑が建てられ、眺望もよく春には桜の名所として市民に親しまれている。
南に一段下がった二の丸は「憩いの丘」、西側の三の丸は「冒険の丘」と呼ばれている。各所に児童向けの遊具や四阿、ベンチが置かれている。
【歴史】 利府城は鎌倉時代、奥州探題留守氏の家臣村岡氏によって築かれたと考えられている。その後も村岡氏の居城であったと考えられるが、長い間歴史の表舞台には登場していない。
永禄十年(1567年)、村岡氏の主家である留守氏が伊達氏から養子を迎えると、村岡氏はこれに反発したが、養子縁組は滞りなく行われた。
これを受けて永禄十二年(1569年)に村岡氏は挙兵し留守氏と交戦するも、翌年に利府城は落城し、村岡氏は滅亡した。
利府城を攻略した留守政景は利府城を修繕・改修し元亀年間(1570~73年)頃、岩切城から移りこれを居城とした。利府城は伊達氏が北に抱える敵方の大崎氏や葛西氏に対する守りの最前線として重要視された。
その後、天正十八年(1590年)留守政景が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため所領を没収され、居城である利府城も廃城となった。