松山城 (まつやまじょう) (松嶺城)
所在地 山形県酒田市新屋敷36-2 2013.11.7
松山城 (まつやまじょう) (松嶺城)
所在地 山形県酒田市新屋敷36-2 2013.11.7
松山文化伝承館
本丸土塁
大手門
大手門・堀
丸馬出し土塁
松山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 松山歴史公園(表記番地)となっており、駐車場が設置されている[マップコード90 685 796*15]。駐車場の西に多目的広場があり当日は薪能の準備が行われていた。
「松山文化伝承館」があり、大手門が保存され庭園が造られ、堀の一部が池になり睡蓮が鮮やかに花開いていた。茶室が建てられ、その西に丸馬出しの土塁が保存され、小駐車場がある。
幕末明治に異才を発揮した松森胤保の胸像、勤王の志士川俣茂七郎の顕彰碑、篤志家斎藤元経の愛山頌徳碑などが建てられている。戻って駐車場の北に研修施設「松山城址館」があり、その北に本丸の土手(土塁)が保存されている。
昭和四十五年(1970年)2月4日、山形県指定有形文化財に指定されている。
【構造】 本丸を中心に、東側に二の丸、本丸・二の丸の西側に三の丸があったが、三の丸の大手側と二の丸、本丸の一部しか完成しなかった。天守や櫓は築城当初から築かれなかったが、当初計画では本丸に二重櫓(3間×4間)を建てる予定であった。
本丸には中山陣屋から移築した御殿があり、本丸の隅には物見櫓のほか、現在残っている大手門があった。天明二年(1782年)九月に完成した大手門は一度落雷で焼失し、現在のものは酒田の豪商本間重利が寛永四年(1792年)に寄進して再建されたものである。梁間3間、桁行5間平面の櫓門で、棟上には1.14mの鯱が上げられている。
松山城大手門は、山形県内で唯一の現存する城郭建築である。
【歴史】 庄内藩二代藩主酒井忠勝の遺命により、正保四年(1647年)酒井忠恒(忠勝の三男)が、庄内藩二代藩主酒井忠当(忠勝の長子)より領内の飽海郡中山村2万石が分与されて初代藩主となり中山陣屋が構えられた。後に、中山を松山と改め、松山陣屋といった。
松山城は天明元年(1781)に松山藩三代藩主酒井忠休によって築城が始められ、7年の歳月をかけて第一次工事を終えた。
宝暦十年(1760年)忠休は西の丸若年寄となり、5千石加増され格式も城主になった。
慶応四年(1968年)戊辰戦争では、7代藩主紀伊守忠良は宗家の鶴岡藩と行動を共にして奥羽越列藩同盟に加わり、官軍と戦うこととなった。廃藩後大手門を除き、建物は取り壊された。