黒羽城 (くろばねじょう) (市の史跡)
最寄地 栃木県大田原市前田1020 2012.6.15 2015.2.1
黒羽城 (くろばねじょう) (市の史跡)
最寄地 栃木県大田原市前田1020 2012.6.15 2015.2.1
二の丸跡
二の丸南空堀
本丸跡・標柱・説明板
本丸跡・黒羽城址公園
本丸跡・黒羽城址公園
本丸南空堀
三の丸跡・芭蕉の館
黒羽城本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想・感想】 城址公園となっているが、空堀と土塁がよく残っていた。江戸時代、松尾芭蕉も数日間逗留しているが、城主とどんな話をしたのであろうか。俳句談義だったのだろうか。
【案内】 那珂川の東「市立黒羽体育館」(表記番地)の前より登った二の丸跡に駐車場がある[マップコード529 735 033*61] (地図)。
その南一段高く本丸は黒羽城址公園になっており、「黒羽城跡本丸跡」の標柱、「御本城御住居全図」が建てられている。また舞台付建物、展望台が建てられている。土塁が周囲に良く保存され、南に大空堀があり、橋で結ばれた曲輪があり四阿が建てられ、土塁が残っている。
空堀の南、三の丸跡に「芭蕉の館」(表記番地)が建てられている。
平成十三年(2001年)6月21日、大田原市の史跡に指定された。
【歴史】 黒羽城の起源は、天正四年(1576年)大関高増が余瀬の白旗城から本拠を移した事に拠る。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、主家の那須資晴は小田原へ参陣しなかった為に改易されたものの、大関氏の当主である高増は弟である大田原氏の当主大田原綱清の息子大田原晴清と共にいち早く参陣して所領を安堵された。
更に慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて大関資増は東軍に与したので、戦後に徳川家康から加増されて1万8千石の大名となった。
江戸時代を通じ、約290年間、関東では珍しく外様大名の大関氏の支配は続いた。
明治四年(1871年)廃藩置県により黒羽城は廃城となった。幕末、肥後守大関増裕は出仕して陸海軍奉行の重職となり、勝海舟と共に偉名を天下にとどろかせた。また、松尾芭蕉が奥の細道の旅行中で最長の14日間、黒羽城下に滞在した。