石倉城 (いしくらじょう)
所在地 群馬県前橋市石倉町5-8 2015.1.14 2018.1.30
石倉城 (いしくらじょう)
所在地 群馬県前橋市石倉町5-8 2015.1.14 2018.1.30
石倉城二の丸公園
城址石碑・鳥瞰図
鳥瞰図
本丸残部・利根川
石倉城 二の丸跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 「石倉城二の丸公園」(表記番地)の北東隅に「石倉城址」と「石倉城之記」(高橋三郎碑文)の石碑、「石倉城鳥瞰図」(裏面)が建てられている。城址碑の文字は故福田赳夫元総理によって書かれた。
本丸跡は大部分が利根川の洪水で崩落し、二の丸は公園となり、三の丸は宅地化され、遺構は消滅している。
【歴史】 文明十七年(1485年)上野国守護代で蒼海城主・長尾忠房の嫡子長尾憲景が築城した。当時の利根川の本流は現在の広瀬川より左岸側を流れていた。
山内上杉氏と扇谷上杉氏が相争い、その間隙をついて北条早雲が関東進出を企て、一方総社長尾氏と白井長尾氏が対立し、箕輪の長野氏が台頭していた。
長尾憲景は永正九年(1512年)新井城の戦いで戦死し、三男長景が石倉城主となった。その後、享禄・天文・弘治年間(1528~57年)に亘る数回の大洪水によって本流が久留馬川に移り、現在の利根川になった。残った三の丸を拠り所に厩橋城を再築した。
永禄六年(1563年)武田信玄の西上野への侵攻に際し、長景は厩橋城の守りについたが、留守を信玄が奪取、城代に曽根七郎兵衛・興左衛門の兄弟を置いた。永禄八年(1565年)越後の上杉謙信が厩橋城を攻め奪還し、荒井甚六郎を城代として守らせた。
石倉城は関東の要衝であり永禄九年(1566年)七月、再度信玄に攻め取られ、保渡田城主の内藤修理亮政豐及び外記親子が兼守した。その後内藤政豐は長篠の戦いで討死し、外記は厩橋城代北条丹後守高広に降り、北条氏の家臣寺尾佐馬助(石倉治郎)が守った。
この間80余年にわたり幾多の攻防と流血の歴史を繰り返し、天正十八年(1590年)五月、徳川家康の侵攻に対し寺尾佐馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。松平(依田)修理大夫康国が追討したが、この戦いで康国は戦死、弟の松平(依田)新六郎が一千有余騎で攻めまくった。
寺尾佐馬助を始め城兵は死力を尽くして戦ったが、武運つたなく今はこれまでと城に火を放ち、城炎と共に相果てた。『石倉城之記』