松ヶ嶺城 (まつがねじょう/まつがみねじょう)
所在地 栃木県矢板市上太田 2015.2.7
松ヶ嶺城 (まつがねじょう/まつがみねじょう)
所在地 栃木県矢板市上太田 2015.2.7
登城ルート(緑線は車道)
東側遠景
東側堀切
主郭・土塁
主郭・土塁
西側堀切
持宝院山門
松ヶ嶺城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高35m】
【感想】 東北自動車道と中川に挟まれた標高266mの丘陵北部にあり、東西に2つの郭があり、土塁や堀切が残っている。
当初、登り口が判らず、矢板北パーキングの東側付近を探したりして、3回目にやっと探し当てた。標識があればと思う。
【案内】 県道30号線「矢板市営バス上太田バス停」より西へ細い道を行く(その先は東北自動車道下を潜る)。橋の先、中川右岸堤防を南へ約260m行き、角にやっと駐車スペースがある[マップコード121 274 430*78]。
丘陵の北東に位置する鉄の橋(錆びて車は渡れない)の南約100mに登り口がある(地図)。
といっても標識等はなく、草木を掻き分け山側に取り付き、北より二番目の尾根を南西に登る。平坦地を下って再度南の尾根に登ると、堀切があり東の曲輪がある。
西に比高約35mの主郭があり、高い土塁がよく残っている。高い土塁の西に堀切が残り、その西に曲輪があり土塁、堀切が見られる。
東の曲輪から東の田園を望むと、やや広い畦が東に伸び、その先に四階建の鉄筋コンクリート造「上太田市営住宅」が見え目印となる。
一説に路宝院の山門(矢板市下伊佐の208)は松ヶ嶺城の寺池山に在ったものを移築されたという『持宝院説明板』。
【歴史】 『栃木県の中世城館跡』によれば、永正年間(1504~21年)に塩谷孝綱によって築かれたとされる。
別説に、文明十年(1478年)正月十八日、宇都宮正綱の四男弥五郎(塩谷孝綱)が養子として塩谷氏に入った際、付家老として岡本重親が塩谷の地に築き居城としたともいわれる。
岡本重親、正重、正親と3代を経て、松ヶ嶺城が戦場となることは一度もなかったが、正親が一時塩谷家を追放されていた天正十三年(1585年)3月25日には、正親の弟氏宗が那須氏との戦いで討死するなど、城主には不遇が多かった。
ただ、松ヶ嶺城は城地が狭く、天然の水堀となっていた城の東を流れる中川(ちゅうかわ)は、通称「バカ川」と呼ばれるほどに氾濫を繰り返し、城下の松小屋の人々を苦しませていた為、天正十八年(1590年)の小田原の役をきっかけに、塩谷氏から独立すると、正親は居城を泉城に移し、松ヶ嶺城を廃城とした。
しかし、城があった山は、寺地山、寺中山などと呼ばれており、松ヶ嶺城の南側にあった岡本氏の菩提寺・慈光寺は、元和二年(1616年)まで存続していた為、廃城後も慈光寺の敷地という名目で、実質的には有事の際に使われる詰め城、あるいは陣城として、寺が廃寺になるまで機能していたのではないかと考えられている。