岩崎城 (いわさきじょう)
所在地 岩手県北上市和賀町岩崎18地割90 2017.4.23
岩崎城 (いわさきじょう)
所在地 岩手県北上市和賀町岩崎18地割90 2017.4.23
大手・土塁
三の丸
本丸橋・説明板
空堀
本丸・桝形
本丸北側土塁
岩崎城址舞楽殿
北側・白鳥神社
岩崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 和賀川の支流夏油川(げとうがわ)左岸の比高約20mの台地にあり、本丸、三の丸がよく残っている。空堀は深く幅も広い。
【案内】 県道225号線より南に約300m行くと右手に「岩崎城運動公園」があり、左に空堀・土塁の大手がある[マップコード108 395 259*06]。
三の丸の東に空堀があり本丸橋が架けられ、説明板が建てられている。
橋を渡って右に桝形土塁があり左(北側)に土塁が残っている。「岩崎城址舞楽殿」(表記番地) が建てられ、南東に夏油川を見下ろせる。
北側の一段下がった城内地区が二の丸跡で民家が並び、本丸下に白鳥神社が建っている。
【歴史】 築城時期ははっきりしないが、南北朝時代にはすでに存在していたと思われる。
戦国時代、和賀氏の居城であった。和賀忠親(父・和賀義忠とも)は天正十八年(1590年)の小田原征伐に参陣せず、名代だけを派遣したことから豊臣秀吉の怒りを買って改易された。
天正二十年(1592年)豊臣秀吉の命を受けた南部氏により破壊された。
慶長五年(1600年)和賀忠親は旧領地を奪還するため、一揆(岩崎一揆)を起こすが失敗し、岩崎城に籠もり南部勢と激戦の末、翌年四月に陥落した。逃げ延びた和賀忠親であったが、その後近臣の蒲田治道、筒井喜助、齋藤十蔵とともに自害した。
岩崎一揆の後には南部氏家臣柏山(かしやま)伊勢守明助が入城しているが、その後いつまで続いたかは明確でない。