粟野城 (あわのじょう)
所在地 栃木県鹿沼市口粟野 2018.1.13
粟野城 (あわのじょう)
所在地 栃木県鹿沼市口粟野 2018.1.13
登城ルート(赤は本丸/紫は女二城/青は詰郭)
横尾家の墓所
ローラースライダー乗場
斎藤秀隆の墓
女二城・二重塔
本丸
詰東の堀切
詰郭・城山石碑
粟野城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【感想】 鹿沼市口粟野の標高257mの山頂に詰を置き一段下がった南に本丸を配置した谷戸構となっている。
城山公園として整備され、頂上付近は樹木が伐り払われ、堀切土橋や詰郭に土塁が残されている。
【案内】 県道246号線と県道15号線の「口粟野」交差点のすぐ西より北に(右折)行くと、「城山公園」駐車場が用意されている[マップコード132 035 498*15](地図)。
忠霊塔より登ると、「オニノ門」先に井戸跡がある。谷の左(西)にも階段状の郭がある。
木道を登ると本丸があり、その北の山頂に、昭和十六年太平洋戦争開戦に先立ち造られた「口粟野防空監視哨」があり東側に2段になり土塁のある詰の郭がある。
東側の尾根に狼煙台、堀切、土橋がある。南東に下ってゆくと女二城の岩場があり、五重塔や天正十六年(1588年)討死した「斎藤秀隆の墓」が保存されている。駐車場向いに初代粟野町長を務めた横尾勝右衛門を初めとする横尾家の墓所がある。
ローラースライダー乗場は櫓風に建てられ、早朝から滑る親子連れが見られ、子供たちのはしゃぎ声が聞こえていた。
【歴史】 暦応年間(1338~42年)佐野氏の家臣平野将監範久により築城されたといわれる。
天正三年(1575年)佐野氏の家臣平野大膳久国が城主のとき、皆川広照の命を受けた家臣斎藤秀隆により攻め落とされ、久国は佐野へと逃れた。
その後、天正十二年(1584年)平野久国は斎藤秀隆が北条氏との戦い(皆川の戦い)に参陣中、手薄になった粟野城を奪い返した。
天正十六年(1588年)皆川広照の家臣斎藤秀隆は2千の兵を率いて粟野城の平野軍と激戦となり、秀隆は討死したが攻防戦に勝利し、落合徳雲入道が城代となった。この戦いで城主の平野久国も討死したという。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、豊臣方の軍勢に攻められ落城、粟野城は廃城となった。