小山田城 (おやまだじょう)
所在地 東京都町田市下小山田町332-2 2016.1.31
小山田城 (おやまだじょう)
所在地 東京都町田市下小山田町332-2 2016.1.31
大泉寺本堂
城址碑
宝篋印塔
最高所の平坦地
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 都道155号線より北に行った「大泉寺会館」(表記番地)横に駐車場がある[マップコード2 634 292*82] 。
山門の左に土塁上の台地があり、大泉寺本堂の左に城址碑と「小山田高家公顕彰碑」が建てられている(地図)。コの字の尾根に囲まれた構造となっている。
また境内の西北の山腹に三基の宝篋印塔があるが、有重、行重、高家の供養塔と云われている。
【歴史】 桓武平氏の流れを汲む小山田別当有重が承安元年(1171年)小山田庄を領し、城を築いた。小山田一族は源頼朝の家人として活躍し、平氏滅亡の後、建久元年(1190年)頼朝の京都入洛に際し、有重の子・三郎重成・四郎重朝・五郎行重は畠山重忠らと共に先陣の随兵として従った。
頼朝亡き後、初代執権北条時政の誹りを受け、元久二年(1205年)三郎重成・四郎重朝とその子らは将軍実朝により、二俣川において謀殺された。
元弘三年(1333年)小山田一族の裔・小山田太郎高家は新田義貞の侍大将として登場、小山田城を固守していた北条泰家の軍を追って鎌倉に攻め入り北条一族を討ち、ここに建武中興が成った。
その後足利尊氏の反乱で、高家は湊川の合戦に奮戦、主君義貞が生田の森で足利軍の矢攻めに立ち尽くすを見て、高家は自らの馬に乗せ危急を救い、自らは処女塚で壮烈な戦死を遂げた。時に延元元年(1336年)五月二十五日と『太平記』に記されている。『顕彰碑』より。