田名部館 (たなぶだて)
所在地 青森県むつ市小川町2丁目13 2014.8.12
田名部館 (たなぶだて)
所在地 青森県むつ市小川町2丁目13 2014.8.12
公園駐車場・案内板
高野槇(樹齢300年)
土塁
空堀・土塁(板塀の中)
田名部館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 代官山公園(表記番地)として整備されている[マップコード284 460 172*16]。北側に空堀跡があり、土塁が板塀の中に保存され将来展示される予定とされる(地図)。
代官所時代に植えられた高野槇が公園中央に残っている。
【歴史】 建武年間(1334~36年)の頃、八戸根城南部師行が家臣 武田修理、赤目(赤星)五郎を目代として置いた所といわれる。
康正年間(1455~57年)、蠣崎城主・蠣崎蔵人が南部氏に背いた際、糠部郡宇曾利郷(下北半島)が蠣崎氏の配下になったため、田名部館も南部氏の攻撃を受けた(蠣崎蔵人の乱)。
乱後に根城(八戸)南部氏家臣新田盛政が城代となり、その後、八戸氏の属城となった。
慶長年間(1596~1615年)に八戸直政の室、清心尼が田名部北方の女館にいたが、元和三年(1617年)に南部利直が根城南部氏から下北の支配権を接収した。
寛永九年(1632年)、館下の常念寺を代官所としていたが、寛文元年(1661年)頃に、館のある場所に田名部代官所が移されて明治まで続いた。
戊辰戦争の後、明治元年(1868年)、南部藩の北郡、三戸郡、二戸郡金田一以北は削封され、翌、明治二年(1869年)陸奧国3万石として、会津藩が斗南藩として田名部に移ったが、明治四年(1871年)に廃藩となった。
その後小学校などの敷地となったが、昭和五十九年(1984年)四月より代官山公園として供用されている。