塚原館 (つかはらだて)
所在地 福島県喜多方市天満前8919−1 2021.5.25
塚原館 (つかはらだて)
所在地 福島県喜多方市天満前8919−1 2021.5.25
漆器蔵會津野
館跡の石碑・説明板
説明板
説明板(左続き)
塚原館跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 喜多方市天満前の市街地や県道となり遺構は消滅している。蔵を改築した「漆器蔵會津野」は雰囲気のあるコーヒー店となっており、石碑のみが往時を物語っている。
【案内】 県道16号線に面した「漆器蔵會津野」(表記番地)の右に館跡の石碑が建てられ、説明板が掲示されている[マップコード97 824 220*85]
【歴史】 葦名氏の宿老富田氏10代実持の女婿監物義実が分家し本家の知行地のうち塚原村440石を与えられ、享禄五年(1532年)塚原新柵と呼ばれる館を築いて移り住んだ。
義実は同時に奥番懸かりとして葦名氏15代盛舜(もりきよ)の庶子山城守氏方に随身を命じられた。氏方は幼名を吉祥丸と云い、大永元年(1521年)7才のとき、弟(盛舜の嫡男)盛氏誕生後、富田実持に預けられ安積郡富田で育てられた。盛氏は長じて東殿と称し小田山城に移った。
天文二十二年(1533年)盛舜が没し、盛氏が16代を継ぎ、義実はその子主膳義祐や松井大学長俊ら氏方の随身達と共に領主盛氏に対し、父盛舜の遺命通り相応の禄地を氏方に分与するよう迫ったが聞き入れられなかった。
永禄四年(1561年)盛氏南山への出兵を機に反乱を起こしたが、鎮圧され、義実、義祐大学らは捕えられ処刑され、氏方は自害した。その時の殉死78名と云われる。
こうして塚原館は主を迎えて29年で廃館を命じられ、義祐の子五郎右ェ門右真はまだ幼く乳母や数名の家臣に守られ田村郡に逃れ、後に蒲生氏に仕えたと伝えられる。
館跡には、天正十七年(1579年)摺上原の合戦の英雄、葦名氏の四天王の一人富田将監隆実が住んでいたとも伝えられている。
文化四年までに書かれた『新編会津風土記』には館の規模について「本丸迹東西三十間、南北三十六間、二丸迹東西三十間、南北四十間、三丸迹東西十四間、南北四十二間、今民屋となり、四方土居隍の形存し傍に馬場迹あり」と記されている。
現在地は二の丸の一画に位置すると見られ、土居隍(土塁)も整地された。『現地説明板』より。