上口内城 (かみくちないじょう) ( 浮牛城・上口内要害)(ふぎゅうじょう)
所在地 岩手県北上市口内町松坂226 2017.10.26
上口内城 (かみくちないじょう) ( 浮牛城・上口内要害)(ふぎゅうじょう)
所在地 岩手県北上市口内町松坂226 2017.10.26
登城ルート
水堀(葦原)
東の二ノ丸跡
北側の二ノ丸(右端に空堀)
本丸 東側遠景
本丸跡
梵字池
帯郭
上口内城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高30m】
【感想】 口内川左岸の標高138.2m比高約30mの独立丘陵頂上に本丸があり、それを取り巻くように帯郭、その外側に東から南にかけて、広い2の丸がある。
2の丸の北に空堀、東から南に水堀が残っている(葦が生えているが)。
【案内】 国道107号線より南東に行き、口内郵便局手前を左折して東に行くと、口内川の橋がありその先に駐車できる[マップコード108 474 326*42]。
大橋跡の横に大手門跡、水堀が残っている。大手道の両側が二の丸跡で、西に行くと桝形があり民家が建っている。
中段に帯郭があり、児童公園などになっている。詰御門跡、本丸門跡を登ると本丸跡で、御書院跡、梵字池、中央に武彦神社跡があり、城址碑と説明板が建てられている。
本丸の北下段に腰郭があり、北端に空堀が残っている。
【歴史】 平安時代、安倍貞任により築城され牛3頭を生き埋めにして鎮護したと伝えられる。
鎌倉時代には、国守葛西氏七党の一人江刺氏の一族・口内氏が居城とした。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏が滅亡すると、口内氏はこの地を去った。
口内地方は伊達氏領となり、南部領と国境を接する地で伊達藩の重臣が配置された。
天正十九年(1591年)から瀬上氏、小梁川氏、藤田氏、田手氏、古内氏と領主が替わった。江戸時代には伊達藩21要害の一つとなった。
元禄八年(1695年)三月、宮城県加美郡小野田本郷から転封となった中島監物利成が入り、以後中島氏が明治維新まで続いた。
中島家の知行高は2524石(上口内村・下口内村・野手崎村・外)で領主居屋敷1軒、侍屋敷80軒、足軽屋敷数百軒を拝領し城下町を造っていた。
元禄十年には伊達藩直属の御預足軽20人を受け入れ飛地内に屋敷が与えられた。