小栗城 (おぐりじょう)
最寄地 茨城県筑西市小栗197 2018.2.21
小栗城 (おぐりじょう)
最寄地 茨城県筑西市小栗197 2018.2.21
登城ルート
登り口の城跡碑・説明板
配置図
三の丸
二の丸への横堀
二の丸
本丸・碑
小栗城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【感想】 小貝川左岸の標高87.9mの小栗山に築かれている。本丸は50m四方ほどと広く、土塁、櫓台が残っている。南側に二の丸、三の丸が在り夫々横堀でつながっている。
【案内】 県道216号線より北に1.3㎞行った宮本公民館手前の空き地に駐車できる[マップコード487 122 171*12]。
民家へ向かう舗装道を行くと城跡碑、説明板の建てられた登り口がある。
そこより堀道を通ってゆくと本丸入口の碑があり、左折して登ると三の丸へ行く横堀がある。西に行くと、三の丸には伐材の置き場となっている。
西側に土橋空堀が残り上段に鉄塔の建つ二の丸がある。二の丸の横堀があり、上段に本丸跡の石碑が建てられた本丸がある。
【歴史】 平安時代末期、久寿二年(1155年)に平重幹の4子重家が小栗御厨の保司となり小栗山に築城、小栗氏を名乗り、小栗氏15代の居城として使われた。
室町時代には小栗満重の乱の舞台となり、14代城主小栗満重ら京都扶持衆が反乱を起こし、応永三十年(1423年)関東公方・足利持氏と激戦の末敗れ落城した。
満重父子(助重)と家臣10名は一族の小栗貞重(岐阜県大垣市)を頼って落ち延びる途中、応永三十三年(1426年)三月、相模の横山氏館で歓待宴の毒酒を盛られ殺害された。
幸運にも大難を逃れた小栗助重は小栗貞重の元へ落ち延びた。乱後、小栗城及び小栗御厨は鎌倉府領となったが、嘉吉元年(1441年)足利持氏没後に結城合戦で小栗助重が戦功をあげたため旧領に復帰することを許され、小栗氏の家督を継承した。浄瑠璃や歌舞伎などで有名な小栗判官のモデルとされる。
しかし、康正元年(1455年)に足利成氏(持氏の4男)からの攻撃を受け、敗れ落城した(享徳の乱)。小栗助重は出家し宗湛入道と号し水墨画絵師として活躍し、文明十三年(1481年)に没した。
小栗氏滅亡後も小栗城は廃城とならず、戦国大名宇都宮氏の家臣小宅氏の居城として使用され、坂戸城とともに小田城主の小田氏、結城家臣で下館城・久下田城主の水谷氏に対する宇都宮氏の防衛拠点となった。
天文二十一年(1552年)小宅尚時が城主の時、結城氏に攻められ一度は結城氏の手に渡ってしまうものの、永禄三年(1560年)宇都宮広綱によって奪還されている。