鴫山城 (しぎやまじょう) (南山城) (県の史跡)
所在地 福島県南会津郡南会津町田島 2014.4.11
鴫山城 (しぎやまじょう) (南山城) (県の史跡)
所在地 福島県南会津郡南会津町田島 2014.4.11
登城ルート
侍屋敷
大門跡
空堀
御平庭
千畳
主水曲輪
愛宕神社・詰城
鴫山城 詰跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 国道121号線より南に行った「田島カトリック暁の星幼稚園」(南会津町田島根小屋甲4242)の南約100mに駐車できる[マップコード433 092 505*24]。
「大門跡」「空堀」「侍屋敷」の南の「御平庭」に井戸跡が残る。「下千畳」「上千畳」 を過ぎると、急坂となり「御茶屋場」の先に石垣が残り「主水曲輪」を過ぎ、比高約80m頂上の「愛宕神社」の詰に着く。頂上からは田島の町並が望める。
福島県の史跡に指定されている。
【構造】 鴫山城は標高750mの愛宕山北辺部に築かれた典型的な山城である。城全体の全長は南北に700mで、山頂部の350mは急斜面、山麓部の350mは緩斜面である。
山頂から山麓にかけて、尾根や谷間などの自然地形を利用して、土塁や門、堀などが構築されている。愛宕山山頂には愛宕神社が祀られているが、戦国時代(長沼氏時代)はここが城の本丸であり、本丸の北東と西方向に削平して階段上になった曲輪群が上から下へ続いている。
【歴史】 鴫山城の築城年代は不明であるが、『塔寺八幡宮長帳』には、長禄四年(1460年)に山内越中と白川氏が「南山しき山の城」を攻め落としたことが記載されており、この頃にはすでに存在していた。
鴫山城一帯(「南山」と称されている)は、長沼氏が支配しており、鴫山城を築城したのも長沼氏と推定できる。
永正十八年(1521年)、長沼氏は黒川城主・蘆名氏と戦い、鴫山城を落とされたという。その後も長沼氏は蘆名氏と戦い、一時は南山を取り返すなど勢力を巻き返したが、十六世紀半ばには蘆名氏に臣従することとなった。
天正十七年(1589年)の摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、鴫山城主・長沼盛秀は伊達政宗に臣従し、伊達勢とともに河原田盛次が守る久川城を攻撃した。
天正十八年(1590年)豊富秀吉の奥州仕置によって長沼氏は伊達氏に従って南山を去り、鴫山城には蒲生氏郷家臣・小倉行春が6千3百石で入城した。
その後、上杉氏時代は直江兼続(上杉景勝の執政)の弟・大国実頼が城代となり、関ヶ原の戦いの後に蒲生秀行が会津領主となると、再び小倉行春が城代となった。
その後、寛永四年(1627年)に加藤嘉明が会津領主となった際に、廃城となった。