平沢城 (ひらさわじょう) (勝岡城・平沢要害・平沢館・寝牛館・臥牛館 )
所在地 宮城県刈田郡蔵王町平沢内屋敷14 2017.10.24
平沢城 (ひらさわじょう) (勝岡城・平沢要害・平沢館・寝牛館・臥牛館 )
所在地 宮城県刈田郡蔵王町平沢内屋敷14 2017.10.24
南側の堀
公民館入口
本丸・蔵王町平沢地区公民館
城跡碑・説明板
北側の郭
西側の切岸・2の丸のグランド
平沢城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 蔵王町平沢の小高い台地に築かれており本丸、二の丸を中心に切岸がよく残っている。北東に川が流れ天然の堀の役割を担っている。
【案内】 県道25号線より北に行った「蔵王町平沢地区公民館」(表記番地)が本丸に建てられている[マップコード156 727 815*06]。手前の櫓台に「勝岡城跡」の石碑と説明板が建てられている。
本丸は南北2段になっており、切岸がよく残っている。
北から西に広がる平坦地(グランド・草地)が2の丸と思われる。
【歴史】 『山形県史』によれば、応永九年(1402年)伊達氏により国分河内入道に与えられたとされている。
一説には天正十九年(1591年)頃に上杉家の将甘槽備後守が築城したとも伝えられる。
慶長年間末、伊達家の着座(上級藩士)高野家15世光兼が平沢の地百貫文(1200石)を賜り、家中70余を引き連れ伊具郡丸森郷より移り、この城を中心に町割を行い平沢要害を形づくった。
寛文十一年(1671年)、16世可兼の時、伊達騒動が起き原田甲斐の孫2名を預かり、その後藩命により処刑している。
明治維新まで9代200余年間、高野家が居城とした。禄高は版籍奉還の時1650石家臣49名足軽27名であった。『蔵王町教育委員会説明板』より。