花輪館 (はなわだて)
所在地 秋田県鹿角市花輪中花輪88 2015.7.4
花輪館 (はなわだて)
所在地 秋田県鹿角市花輪中花輪88 2015.7.4
搦め手舘坂
二の丸・代官所跡標柱
本丸・土塁
北郭・八幡宮
星場
外郭
花輪館 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 鹿角市立花輪小学校(表記番地)敷地となっており、「搦め手舘坂」を登った「桜山地区公園」入り口手前に1台駐車できる[マップコード297 380 470*75]。
比高20m位の高台に東西約210m南北約140mで段差4mの上下2面に分かれ、東側の鹿角市立花輪小学校(表記番地)校舎が二の丸跡で、「花輪通代官所跡」の碑が建てられ、南の門付近に説明板が建てられている。
西の高いグランド敷地が本丸跡で、土塁が残り、北西隅に「八幡宮供養塔」が建てられている。
大手口「盆坂」の道路を隔てて、宅地畑となっている南館がある。北東の搦め手道「舘坂」を隔てて、「桜山地区公園」の北館があり、若宮八幡社や忠魂碑が建てられている。
その北東低地に藩制時代の射撃の訓練場「星場」があり、その右高台に外郭「揺ぎ館」があり展望台が建てられている。
【歴史】 鎌倉御家人・安保氏が臥牛本館に拠り、花輪次郎を名乗ったのが始まりとされる。
中世の大館の一角を利用したもので、御館・北館・南館からなる連郭館である。
幾多の興亡の後、南部氏と戦って敗れ、天正十八年(1590年)に三戸南部の支配下の大光寺正親が城主となった。
以来重臣による城代、郡代への交代が相次ぎ、明暦三年(1657年)毛馬内九左衛門が古館に入り、延宝二年(1674年)中野伊織吉兵絵が入部、樋口館(要害屋敷)にはいり、秋田藩との境目の守備に当たった。
当時の鹿角は、北半分が毛馬内通、南半分が花輪通と呼ばれていた。中野氏は後に南部氏の姓を許され、花輪南部氏とも呼ばれた。
江戸時代、二の丸には盛岡藩(南部藩)の代官所が置かれ、御官所と呼ばれた。本丸の中野氏の館は「御仮屋」と呼ばれていたが、中野氏は盛岡におり、その家臣が盛岡と連携し統治していた。
明治三年(1680年)二の丸に江刺県花輪分局が置かれ、後に足尾銅山公害反対運動で有名になる田中正造が若いころに勤務していた。