鮭延城 (さけのべじょう) (真鶴城・真室城)
所在地 山形県最上郡真室川町内町 2015.6.13
鮭延城 (さけのべじょう) (真鶴城・真室城)
所在地 山形県最上郡真室川町内町 2015.6.13
登城ルート
北側の大手口・案内図
大手門跡・虎口
城跡碑・ 本丸
本丸北側
東側堀切
搦め手門跡入口
鮭延城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【案内・感想】 県道321号線と県道35号線(JR真室川駅より1.8㎞南・真室川の東)との交差点より奥羽本線踏切を越えた50m先に、搦め手入口がある(地図)。但し駐車スペースは無い。
踏切を越えすぐ左折、奥羽本線の東の細い道を約300m道なりに行くと大手口がある[マップコード221 645 184*68](地図 ) 。大手口には駐車スペースがあり、案内図が建てられている。
そこより砂防ダムの横を南に登ると、井戸(清水・すず)跡があり、木道を登ると比高約30mの大手門虎口・本丸に出る。草が茂っているが、その西80m付近に「鮭延城址」の石碑、説明板(裏側イメージ図)が建てられている。
搦め手門の地点より南に薬師堂方面に150mほど行くと、堀切が残っている。その北に土塁の残る杉林の曲輪がある(草木や薮で見逃しやすいが)。 搦め手入口は民家の横を登って行くと搦め手門跡に出る。搦め手門と大手門をむすぶ通路の北が本丸で、南が二の丸と思われる。
【歴史】 近江源氏佐々木綱村は一族を率いて出羽に下り、仙北の領主小野寺氏の客将となり関口の番城を預かって居住した。
天文年間(1532~55年)、小野寺景道の時代に、大宝寺氏(武藤氏)や最上氏と領有を争っていた最上地方全域の領有を図るため、佐々木貞綱(鮭延貞綱)を遣わし、当初は、鮭川と最上川が交わる岩花城(現戸沢村)に入った。
永禄六年(1563年)の庄内合戦の時に、大宝寺氏との戦いに敗れて岩花城を落とされ、岩花の北方、真室郷まで後退し、天然の要害である鮭延の地に城を築いたとされる。貞綱は地名に因んで鮭延氏を称した。
天正九年(1581年)、最上義光(よしあき)によって鮭延城を攻められ、城主であった鮭延貞綱の子鮭延秀綱(当時十六歳)は、一度は抵抗したものの最終的に降伏した。
しかし、領土を安堵されたため最上義光に恭順、鮭延城は小野寺氏から最上氏の城へと変わり、最上氏の大宝寺氏・小野寺氏攻略の拠点となった。
秀綱は最上義光に仕え続け、長谷堂城の戦いでは目覚しい活躍を見せたため、戦後の論功行賞により1万千5百石を与えられ鮭延越前守源秀綱と号した。
元和八年(1622年)に最上氏は改易され、近江大森藩(大森陣屋)に移された。鮭延前守源秀綱は佐倉藩主・土井利勝の預かりとなり、最終的に土井氏の国替えに従って古河へと去り、当地にて没した。
最上氏の知行地は分割され、最上地方には、常陸松岡藩主・戸沢政盛が6万石で入封した。
当初は本城に入ったが、山城であったため狭隘かつ不便で、幕藩体制下の領国経営には適さなかったため、新庄沼田の地にあった小城、沼田城を元に新庄城を築城し、寛永二年(1625年)完成とともに新庄城へと移り、新庄藩を立藩した。
これにより、鮭延城は廃城になり、城は破壊されて放置された。