多賀城 (たがじょう) (国の特別史跡・日本100名城7)
所在地 宮城県多賀城市市川大畑16 2012.10.7
多賀城 (たがじょう) (国の特別史跡・日本100名城7)
所在地 宮城県多賀城市市川大畑16 2012.10.7
政庁跡碑
政庁東建物跡
政庁正殿土台
外郭東門跡
多賀城 政庁跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 多賀城神社の東に行った「市川地区集会所」(表記番地)の西側に駐車場がある[マップコード21 809 452*86]。
道路南に、一辺100mの政庁跡があり、土塁や政庁土台、その東西に建物跡が復元されている。
北東約500mの道路南に外郭東門跡があり、土塁、堀がある。
大畑地区、外郭北東隅、六月坂地区に遺跡が検出されている。
また政庁南の大路約250m先の道路南に多賀城碑(多賀城の造営や改修の記録碑)があり、その西隣に南門跡がある。
その他、多賀城廃寺跡(多賀城とほぼ同時期に建立された)、佐貫地区、外郭南東隅(多賀城あやめ園)に遺跡が検出されている。一辺約1㎞に及ぶ外郭には、案内標識が要所要所に建てられている。
【歴史】 神亀元年(724年)大和朝廷により蝦夷の制圧の拠点として、按察使大野東人(おおののあずまびと)が築造したとされている。
四回の造営が行われ、第一期は724~62年、第二期は762年(天平宝字六年)藤原恵美朝狩が改修してから780年(宝亀十一年)伊治公砦麻呂(これはるのあざまろ)の反乱で焼失するまで、第三期は砦麻呂の乱による焼失の復興から869年(貞観十一年)の大地震による倒壊まで、第四期は869年~十世紀半ばで震災の復興から廃絶までに分けられる。
十世紀後半頃には維持、管理されなくなり、多賀城は次第に崩壊していった。十一世紀後半の前九年の役(1051~62年)、後三年の役(1083~87年)で軍事的拠点として使われた。
南北朝時代に南朝は北畠親房の子・顕家父子を陸奥守に任じ、陸奥将軍府をおいて東北、北関東の支配の拠点とした(1333~38年)。