玉縄城 (たまなわじょう)
所在地 神奈川県鎌倉市城廻200 2016.1.16
玉縄城 (たまなわじょう)
所在地 神奈川県鎌倉市城廻200 2016.1.16
清泉女学院入口より見た台地
正門前
諏訪壇入口・城跡看板
諏訪壇
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 「清泉女学院」(表記番地)の敷地や宅地となっている。破壊を免れた遺構としては、城の最高部であったと言われる土塁「諏訪壇」(地図)があるが、樹木が生い茂り、実際に訪れても形状の把握は難しい。
正門守衛所の向いにフエンスで囲まれた諏訪壇があり、施錠された扉の前に玉縄城跡の案内板が建てられている(事前に許可を取り、開校中の平日に見ることが出来る)。
また、清泉女学院校門前に安置されている巨石は、玉縄城遺構の一部と言われる。
【歴史】 永正十年(1513年)北条早雲(伊勢盛時)により築かれた。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出す事が可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。更に鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面でも重要な役割を果たした。
大森氏の小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の相模三浦氏と争うが、、長期戦となった。この際、同氏の主筋である武蔵の扇谷上杉氏当主上杉朝興が三浦氏の援軍として挟撃してくる事への備えとして、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築かれた。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえとしての役割を担った。
初代城主氏時は早雲の実子、2代城主為昌は氏綱の実子であり、為昌の急逝後は氏綱の娘婿で、長く城代として為昌を補佐してきた北条綱成が「為昌の養子」という名目で3代城主となった(ただし、実際の年齢は綱成の方が上である)。
以後、綱成の子氏繁、氏繁の嫡男氏舜、その弟氏勝と4代にわたって城主の地位が継承された。
堅城として知られ、大永六年(1526年)十一月二十六日に足利義明に呼応して鎌倉へ攻め入った里見義豊(里見実尭を大将とする説もある)の軍勢を撃退したときをはじめ、度々里見氏の攻撃を退けた。また上杉謙信や武田信玄が相模へ乱入した際も攻略をあきらめたほどである。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐においては、徳川家康の攻撃を受け、守将北条氏勝は降伏・開城した。氏勝は以降徳川氏の家臣となり、下総国岩富城に移封された。
徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信の居城となり、その後は一門の長沢松平氏の居城となった。
元禄十六年(1703年)二月十日、長沢松平氏が上総国大多喜藩へ転封となったのち、廃城となった。