太田城 (おおたじょう) (舞鶴城・佐竹城・青龍城)
所在地 茨城県常陸太田市中城町151 2014.4.10
太田城 (おおたじょう) (舞鶴城・佐竹城・青龍城)
所在地 茨城県常陸太田市中城町151 2014.4.10
太田小学校・舞鶴城址碑
舞鶴城址碑
若宮八幡宮
太田小学校北側切岸
太田城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 常陸太田市立大田小学校(表記番地)の敷地が本丸跡で、正門の先に三角形の城址碑が建てられている(地図)。南の若宮八幡宮境内が二の丸跡(地図)である。
【歴史】 天仁2年(1109年)に藤原秀郷の四世・藤原通延が、下野国から太田郷に入り、太田大夫通延と称して築城したのが始まりであるという。
曾孫通長に至るまで居城したが、源新羅三郎義光の孫・源昌義が後三年の役(1051~62年)の功により領有することになった。
地名をとって佐竹氏を称したのち、二代佐竹隆義は当時の太田城主藤原通長(通延の曾孫)を服属させて小野台地(瑞竜中学校周辺)に移して小野崎氏を名乗らせ、自らは太田城に入った。入城の日、太田城の上空を鶴が舞いながら飛んだので「舞鶴城」と名づけたという。
以後250年にわたり佐竹氏代々の居城であったが戦国最末期の当主佐竹義宣は水戸城に本拠を移す。その後慶長20年(1615年)徳川家康の一国一城令により廃城となったが、城の機能は一部残され「太田御殿」と呼ばれ水戸藩の家老の中山氏が管理することとなった。