沢村城 (さわむらじょう)
最寄地 栃木県矢板市沢393 2016.3.8
沢村城 (さわむらじょう)
最寄地 栃木県矢板市沢393 2016.3.8
登城ルート(緑線は車道)
温泉神社
本丸南外空堀
本丸内空堀・土橋
本丸跡・櫓台
五郎資重供養塔
本丸二の丸間空堀
沢村城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高30m】
【案内・感想】 箒川右岸の標高250mの独立丘陵に築かれている。
観音寺(表記番地)前の県道52号線を約200m南東に行き、左折して行った「温泉神社」前に駐車スペースがある[マップコード121 221 767*81]。同名の温泉神社は南東約800mの矢板市豊田にもあるので注意が必要である。
境内石垣に、「沢村城築城八百年」と題した説明板が設置されている。
拝殿左に少し行き、北側に4の丸空堀があり、土塁を挟んで本丸空堀、土橋がある。本丸の周囲は内空堀を巡らし北側に土塁・櫓台が残っている。即ち、南側は二重の空堀となっている。
本丸の南に「五郎資重・烏山那須統領130余柱菩提供養塔」と刻まれた石塔が建てられている。その南に深さ5m以上の空堀で区分された2の丸、3の丸がある。藪で覆われている。
反対に本丸の北に空堀で区分された4の丸、5の丸がある。その南に澤観音寺がある。遺構は良く保存され、見応えがある。南方800mに成田城が望める。
【歴史】 沢村城は文治三年(1187年)那須太郎資隆の7男・七郎満隆が付近一帯を分知、箒川を越えた段丘上に築城し沢村氏を称した。
230年後の8代資重が那須宗家の福原城から下り沢村氏を継いだ。資重は民を愛しみ大いに名声を上げた。
福原の兄資之はこれを心よしとせず、夫人の父上杉入道禅秀が「小国那須を上、下に分けるいわれなし、資重を滅ぼし一つに領し給え」と、そそのかされ角田・大田原・佐久山・芦野・稲沢・河田等を集め「おごる資重を追討すべし」ということになった。
資重は兄弟相争うことの非を悟り、千本・森田等那須南の庄の住人の意見を入れ「沢村城開退、興野上に一旦入り、後、烏山に拠るべし」という事になった。その後応永二十五年(1418年)烏山城を築き、勢力を盛り返した。
応永の沢村城開退のみぎり、両軍の戦死者の屍を埋め回向したという「回向像」は那須学園東方にある。以上『温泉神社の説明板』より。