和田城 (わだじょう)
最寄地 福島県須賀川市和田仲内113 2020.5.24
和田城 (わだじょう)
最寄地 福島県須賀川市和田仲内113 2020.5.24
登城ルート
北麓の登り口
墓地
城塁
主郭
主郭西の土塁
和田城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【感想】 須賀川城の南東約3kmに位置する、阿武隈川左岸の標高約270mの丘陵東端部に築かれている。
全体的に鬱蒼としているが、主郭の北東に虎口があり、西側に低い土塁が残っている。
東の堀切を挟んで、自然地形に近い物見がある。
【案内】 県道138号線の阿武隈川北詰より西に行った表記番地横の石塔の前に駐車できる[マップコード61 378 323*04]。北に100mほど歩いた墓地より登る(地図)。
草木が多いが、墓地左より真っ直ぐ谷筋を登ると、堀切に出、右に主郭、左に物見がある。主郭西側に土塁が見られる。
【歴史】 二階堂氏の家臣・須田氏の居城と云われる。
天正十七年(1589年)六月摺上原の戦いで蘆名義広が大敗して蘆名氏が滅亡すると、伊達政宗に須賀川城を攻められた。
和田城主の須田美濃守盛秀は須賀川城の城代となっており、籠城して伊達軍に徹底抗戦したが、十月二十六日落城した。
須賀川落城後、盛秀は自らの居城・和田城に火を放ち常陸国に逃れ、佐竹義宣に仕え、文禄四年(1595年)に茂木城主として須賀川衆と呼ばれた二階堂旧臣など約百騎(茂木百騎)を預けられた。
盛秀は義宣の信頼厚く、関ヶ原の戦いの後、義宣が出羽国に移封されると慶長七年(1602年)に角館城を受け取り城代を務め、さらに翌年には横手城城代となった。
また、寛永元年(1624年)に改易されて秋田久保田藩へのお預けの身となった本多正純・正勝父子を監視役として預かった。
寛永二年(1625年)、死去した(享年96)。